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想うだけの「愛」があってもいい、と認めてほしい

さて、今回のテーマは、私の願望であり、伝えたくとも、上手く伝えられない脆い私から出てきた精一杯の訴え、です。

結論を先に話すなら、
言葉や行動だけが、「愛」の証明ではなくて、「愛」も人の数だけ答えがあってもいいし、その中に「表現しない愛」があってもいいと思いたい、ということです。

これは、自分自身のためにも文章にしておきたい内容で、まず人に届くことはないけど、それが、私の「軸」であり「本質」である、と思うようになりました。話しても人になかなか理解されない考え方ですが、お付き合いいただけると嬉しいです。


まず、私が考える「愛」は、おそらく「人間愛」が一番、世の中的にしっくりくる考え方、なんだと思います。もちろん「異性愛」も抱きますが、「人間愛」があって、その上に成り立つもの、と考えてます。

私には、好き、嫌いの他に、どちらでもない、があり、どちらでもないに属するものが、人より多いのかもしれません。その、どちらでもないの中に、「そうであっていいと思える」という考え方があります。ここに属するものは、違いを個性として受け止められるもの、です。

「そうであっていいと思える」ものは、
あなたのその一部は、私にとって「あなたの価値」に変わるものになる、ということ。

そう思えたものに、私は「愛」を感じます。そして、その愛は、「あなたの〇〇が素敵!」という言葉に変わったりします。が、大半の場合は言葉にも行動にも出来ないことが多いのです。

表現の仕方はわかるのに表現が私が脆すぎるのか、上手に出来ないのです。(特に耳が敏感すぎて自分の発した声にさえ、自分の心を揺さぶられがち)強い感情を抱きすぎてるときは尚更…言葉にすることで、歯止めが効かなくなる、そんな気がしています。そしてその状況が訪れ、コントロールが効かなくなることを、私が非常に怖がっていることも、表現できないことに繋がっているのかもしれません。

だから、私は、不安定なとき、コントロールできる自信が持てないときは、まず言葉にしません。(頭の中には言葉が浮かんでますが、口は動かない)行動は、浮かんできた感情や刺激に遮られ、怯む、という反応になりがちです。わかりやすくいうと、動いてる最中にピクッとなって、止まってしまうのです。一定時間一時停止が続く、といった感じでしょうか?

これが、私が自分の脆さを実感する時です。強すぎる感情は、私が私自身でコントロールできなくなってしまう可能性を孕んでいます。それが私を臆病にさせてしまうのでしょう。とはいえ、この状態ならば、私が私の言葉や行動で誰かを傷つけにいくことはない…ある意味、人を守れる、とも考えているのです。

私が恨まなければ、平和は、保たれる。

…私は、争いが大嫌いです。怒りや悲しみから来る恨みの感情が、一番苦手です。…直ちに遠ざけたい。自分の中に沸かせるのはもちろん駄目だし、向けられるのも…本当は嫌。

強すぎる感情は一時的なものです。湧き上がるものは、相手に対する行動や言動に変えなければ、次第に熱が冷めていく。そして、そんな気持ちがあったことも、忘れてしまう。…これは、私の特性から来るものなのかもしれませんが、あえて、ぶつけられる側を選びがちです。ぶつける側にはなかなかなれません。なぜなら私はすぐに怯んでしまうから。なので結果的には、それを選ぶしか出来ない。相手がどうであろうと押しとおすという強さがない私は、…受けとめる「愛」を行使するのです。(あなたはそう思うのね、…わたしには分かりかねるけど)…実は、こう思っていますが、これが表現できない。私の本質を見ようとしてない人には、同意、ととられやすいのかな、なんて思ったりします。抵抗をしませんからね…

これが、一番周囲の人間に理解されないことだったりします。なぜなら、怯まなければ、私は、人に合わせることができるから。ただ怯んでしまえば、私から動くことができなくなる。状況によって、チグハグなのです。だからこそ、混乱させる。そしてそれを表現できないで長年きてしまったから、もはや、それを受け止めて相手に変わることを求めるようなことはしたくない。…というかいろいろやった結果、無駄であるとようやく気づきました。もう、あんな"狂い方"はしたくない。

(時期が来たら"狂い"はきちんと文章にしたいですが、それはまた別の機会に…)

私はけっして同意をしていない。…その事実を伝えることが、相手を苦しめることを知っている。…わざわざ苦しめることを、伝える強さはないし、意味もみいだせない。

だから、私は周囲と違う自分を、変えることを諦めました。

そしてこの決意も、周囲を守る、私なりの「愛」であると、認められたいな…なんて思うのです。


そんな気持ちを感じ取れる人も、説明すれば、そんな価値観もある、と受け止めてくれた人もかつて何人かいました。そんな人のことは、私は私なりに、これからも、想う「愛」で大切にしていきたいのです。


本日の話をまとめると、

表現しないのではなく、表現したくとも脆さで表現できない。…そんな人間もいることを知ってほしいこと。

そして、表現しないのには、その人なりの「価値観」があって、けして否定されるべきではないもの。どうかその気がない、と決めつけないでほしいこと。

その違いを受けとめて「それでもいいと思える」という気持ちを抱いてくれる人がいてくれたら、それだけで救われる人が、私以外にも、もしかしたら、いるかもしれない、ということ。


過去に、私にさえ分からなかった、私の気持ちを感じ取ってくれた人が、少ないですが何人かいました。私はそういう人達に救われて、今日まで生きてこれたのだと思っています。私はその人達を想う「愛」で生きてきているんだと思います。たとえ表現してなくても、それが伝わる人はいるんだと信じて、私はなんとか、生きることを諦めずにいたいと思います。


このnoteでは、私の経験を通して、なんとなく掴んできた、自分の心をラクにする『好きを大切にする』生き方を、話しています。

ゆるゆると発信を続けていくので、読んでみようかな、と言う方は、よければ、フォローしてもらえたら嬉しいです。

そんなわけで、本日はここまでです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。




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