小説「観月 KANGETSU」#29 麻生幾
第29話
熊坂洋平(2)
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七海は腕時計を正木の目の前に見せつけた。
「こんな時間まで酷いじゃないですか──」
「まあまあ」
正木が取り成した。
「警察に協力は惜しみません」七海が不機嫌そうに続けた。
「それでなくとも、親しゅうしち頂いた方が殺されたんです。私が申し上げたいのは、ルールがあるんじゃないですか、ということです」
隣では、溜息をついた涼が額に片手を当てて天井を向いていた。
「お前、苦労するど。こげなキツイ嫁さん──」
苦笑しながら正木が涼に向かって言った。
「失礼します」
ぶっきらぼうにそれだけ口にした七海は、ドアに向かった。
「またお聞きせなならんことがあったら連絡するけん、よろしゅう」
正木が七海の背中に声を掛けた。
だが七海は振り返ることもなく会議室を後にした。
追いかけようとした涼を正木が制した。
「イチャイチャはしばらくお預けだ」
「すみません……」
涼がバツの悪そうな表情を作った。
「それより、予想もせん展開となった」
正木が眉間に皺を刻んだ。
「予想もせん展開?」
涼が訝った。
正木は、警視庁からの電話の内容を涼に教えてやった。
「いったいどげなこと(どういうこと)です?」
涼が困惑の表情を浮かべた。
「混乱するこたあねえ。熊坂洋平が、大分と東京で起こった二つん殺人事件と何らかの関わり合いを持っちょん可能性がある、そげなことや」
正木が虚空を見つめながらそう言った。
「それにしても熊坂ちゅう奴はどげな……。熊坂についちは、何の公的記録もなく、いわば、人定が出来ちょらんちゅう状態と同じです……」
そこまで言ってから、涼はハッとした表情となった。
「いや、こりゃ、もう怪し過ぎる……もし……熊坂が東京で起きた殺人事件にも深く関係しちょんやら……」
「さっきもそんこたあ警視庁とも話をしたが、熊坂が東京に行くことが可能だったか……首藤、ちいと調べちみぃ」
正木が指示した。
涼が急いでスマートフォンをズボンのポケットから取り出した。
「現場はどこです?」
そう聞いたのは涼だった。
「東京の大田区と神奈川県川崎市を結ぶ、ガス橋やらいう橋ん下やと――」
「やったら、え~と、羽田発大分行きの航空機の始発が、午前6時30分。それと、え~、ガス橋からタクシーをぶっ飛ばしたら……あっ、そん始発便には間に合う。で、大分空港に着くんが8時15分――」
「つまらん(ダメだ)」
正木が溜息をついた。
「そうですね……自分、午前八時ちょうどに熊坂を確かに車に乗せています。それに、航空機は、遅延はありますが、相当早う着くちゅうこたああり得ませんし……」
涼がキッパリと言った。
「まっ正直、東京の事件の犯人が、熊坂やとは思うちょらんかったが……ただ、何らかん関わりはあるかしれん……」
正木が腕組みをした。
「もしかすると、熊坂夫婦と鑑(かん・関係)のある誰か別の人物が……」
「まだ何も分かっちょらん」
正木が舌打ちした。
「そもそも警視庁はなし熊坂に注目をしているんです?」
涼が訊いた。
正木は首を左右に振ってから口を開いた。
「明日、警視庁から萩原ちゅう警部補がこっちにやっちくる。そん時、わかる」
*
10人ほどの乗客とともに杵築駅の改札口を抜けた七海は、辺りをキョロキョロしながら、近くの駐車場へと小走りに向かった。
停めてあったシエンタに急いで乗り込んだ七海は真っ先にドアロックした。
そして再び、周囲を見渡してから車をスタートさせた。
闇に包まれた県道を走らせながら、七海は別府警察署での光景を腹立たしく思い出した。
あの、偉そうな正木という刑事は、自分が襲われかけた事件のことを尋ねる時よりも、熊坂さんのことについて聞く時の方が表情も雰囲気も真剣だった。
(続く)
★第30話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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