辻田真佐憲

日本人が「招かれざる客」として武漢へ殺到した時代|辻田真佐憲

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「武漢三鎮のうち、漢口が下町の商業地区とすれば、武昌は山の手の文教地区、漢陽は江岸の工業地区であった」と、武漢兵站司令部で1943年より慰安係長を務めた山田清吉は、その著書『武漢兵站』で述べている。

 この記述が示すように、いまコロナウイルスで話題の武漢は、かつて3つの都市に分かれており、そして日本軍の占領下にあった。

 日本軍が武漢を占領したのは、1938年10月のことである。「東洋のシカゴ」とも、「中国の大阪」とも呼ばれたこの華中の要衝を落とせば、蔣介石も屈服するだろう。そんな期待も相まって、攻略作戦は華々しく喧伝された。

 尾崎士郎、菊池寛、久米正雄、佐藤惣之助、佐藤春夫、林芙美子、吉川英治、吉屋信子ら22名の作家が、「ペン部隊」として大陸に渡り従軍したのはこのときのこと。かれらは帰国後、その従軍記を雑誌などに書きまくった(林芙美子の『北岸部隊』はとくに有名)。

 あまり知られていないけれども、西条八十、古関裕而、佐伯孝夫ら音楽関係者も「レコード部隊」として、同時期にやはり大陸で従軍している。

 武漢へ。武漢へ。国内の熱気もすさまじく、この前後だけで「武漢」「漢口」をタイトルに含む歌が12曲も作られたほどだった。

 コロムビアは「漢口さして」。ビクターは「漢口−東京」。タイヘイは「帰らう帰らう漢口へ」。テイチクは「漢口へ!血の突撃路」「漢口だより」。アサヒは「漢口陥落だより」「奪つたぞ!漢口」。

 とくに多かったのがポリドールで、「漢口だより」「武漢陥つとも」「武漢攻略の歌」「漢口突入」「武漢を指して」と5曲を数えた。似たタイトルが多いのは、当時「〜だより」という曲が流行っていたため。さらに武漢作戦に関係するものまで含めると、その数は何倍にもなる。

 日本で「武漢、武漢」と連日話題になったのは、今日とこのときくらいだろう。

 日中戦争は武漢攻略でも収束しなかったため、そのフィーバーは急速に冷めていった。とはいえ、武漢はその日より長らく日本軍の一大拠点となり、多くの部隊が駐屯した。そしてそれが、『武漢兵站』の内容につながるのである。

 慰安係長という著者の肩書からも連想されるように、それはおもに慰安婦と彼女たちが働く特殊慰安所にたいする監督指導の話だった。現場を知り尽くす担当者が書いただけに、その記述はどれも具体的で生々しい。

 武漢の特殊慰安所は、漢口の積慶里にあった。高い煉瓦塀で外部と遮断された内部には、戦捷館、勝己楼、平和館、武漢楼など20軒の妓楼が並び、内地人130名、朝鮮人150名の慰安婦が働いていた。

「内地から来た妓はだいたい娼婦、芸妓、女給などの経歴のある二十から二十七、八の妓が多かった」が、「[朝鮮]半島から来たものは前歴もなく、年齢も十八、九の若い妓が多かった」(以下、不適当な表現も見られるが、原文ママで引用する)という。

 今日では一括にされやすい慰安婦も、個々の来歴や性格、行状はさまざまだった。騙されて連れてこられた哀れなものがいたいっぽうで、「内地を[で]食いつめたすえ漢口くんだりまで流れついたあばずれもいて、係長なんかくそくらえで、私たちには歯がたたないのもいた」。

 ある慰安婦は、酔っ払って「係長がなんだ。ひとを馬鹿にしてるよ」と司令部に乗り込んできたり、また別の「海千山千の性愛技巧のプロ」は、「係長さんが私のところへ遊びに来て下さるなら二[三]日も[に]あげず通わせてみせます」などと誘惑してきたりしたという。

 それぞれの妓楼を経営する業者も多種多様で、一山当てようと「リュックサック一つ背負って大陸に渡り、荒稼ぎをねらった一発屋」もあれば、「軍命令によって仕方なく支店を出していた松島、福原あたりの老舗」もあり、「この両者の間はとかく折合がわるく、内地人同士でもしのぎを削るありさまであった」。

『武漢兵站』は1978年の本である。「慰安婦問題」の心配がなかったので、記述に遠慮がなく、著者はみずからの苦労話に終始する。それだから、不謹慎ながら、なかには笑ってしまうような記述もないではない。

 たとえば、山田係長は、性病予防のため、海軍より啓発映画を借りてきて、慰安婦たちに見せた。衛生サック(コンドーム)の使い方を示したものだったが、映写幕いっぱいに巨大な陰茎が映しだされて、慰安婦たちは腹を抱えてしばらく笑いが止まらなかったという。なおその映画のタイトルは『純潔』だった。

 あるいは、慰安係がしばしば管掌した将校用料亭の話も興味深い。軍司令部と付き合いのあったある料亭の女主人は、うまく情報をキャッチし、敗戦になるまえに店の権利を譲渡して国内へ逃げ帰ったという。日本軍将校の回想とはいえ、こういう良くも悪くも人間味のあるエピソードはたいへん読み応えがある。

 これらは、日本人が「招かれざる客」として武漢に殺到した時代の貴重な記録である。筆者はかつて「武漢ソング」の復刻に携わった。いまや稀覯本となってしまった『武漢兵站』も、ぜひどこかで復刊されることを期待したい。

(連載第7回)
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■辻田真佐憲(つじた・まさのり/Masanori TSUJITA)
1984年、大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)などがある。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。


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