小説「観月 KANGETSU」#48 麻生幾
第48話
合同捜査(8)
「お願いします」
正木が萩原に握手を求めた。
「これは、こっちの御箱を取られましたね」
萩原は笑顔で握り替えした。
「ただ、こちらからもお願いがあります」
萩原が一度、チラッと涼に視線を送ってから続けた。
「島津七海ついても、詳しく調べる必要があると思います。是非、身辺捜査を行って頂き、我々にも情報をください」
「もちろんです。こちらもそう考えていました」
正木が躊躇いもなくそう言い放ったその横で、涼は呆然としたまま何も言えなかった。
萩原たち警視庁の刑事たちが立ち上がろうとした時だった。
会議室のドアが勢いよく開いて、特別捜査本部の刑事が飛び込んできた。
「た、大変です!」
「落ち着け!」
正木が叱った。
「熊坂洋平がトイレで吐血し、今、救急車を呼んでいます!」
刑事が早口で言った。
そこにいた全員が調べ室に近いトイレに走った。
凄惨な光景は、トイレの入り口から涼の目に飛び込んだ。
一つの洗面台が真っ赤な血で満杯となっているのだ。
側に座らされている熊坂洋平は顔面蒼白で、汗をかいていた。
救命救急の講習で、その状態は出血性ショックを起こす危険性があると教えられたことを思い出した涼は、熊坂洋平に近寄り、ベルトや胸のボタンなど、締め付けているものをとにかく楽にさせてやってから、1階へ急いだ。
涼が玄関に辿り着いた時、遠くで救急車のサイレン音が聞こえた。
道路の前まで走っていった涼は、大きな身振りで救急車を誘導した。
玄関に辿り着いた救急隊員たちを、熊坂洋平が倒れているトイレまで誘(いざな)ったのは涼だった。
熊坂洋平の前に駆けつけた救急隊員がバイタルサインを測ると、やはり血圧は低下し、危険な状態だった。
ストレッチャーに乗せられた熊坂洋平は救急車まで急いで運ばれた。
「後で連絡入れます」
1階までやってきた正木にそれだけを言った涼は、熊坂洋平とともに救急車に乗り込んだ。
「気を強く持ちくりい。すぐに病院に着くけん」
そう声を掛ける涼の耳に入ったのは、搬送先と決まった別府総合病院の名称だった。
*
別府総合病院
松葉杖の使い方が何とか分かった七海が、慣れない歩行で、救急外来エリアから玄関へと向かおうと、ちょうど救命救急センターの観音開きの入り口の前を通り過ぎようとした時だった。
右手にある救命救急センターの専用入り口のドアが開けられた。
騒然とした雰囲気の数人の救急隊員がストレッチャーを引きながら飛び込んできた。
七海はハッとしてその姿にすぐに気づいた。
ストレッチャーの後ろから、いつにない深刻な表情をした涼が連れ添っていたのだ。
涼の視線が七海に投げかけられた。
しかし声をかける間もなかった。
涼は、七海に何の反応もせず目の前を通り過ぎ、救急隊員とともに救命救急センターの奥へと消えていった。
あっという間の出来事だった。
七海は、正直、わだかまりを憶えた。
さっきまで同じ気分に浸っていたことが原因かもしれなかった。
涼は、さっき、こっちを一瞥した時、絶対に私であることを認識したはずだ。
──にもかかわらず、『おお、後でな』、くらいん言葉があってん良かったんやねえんの……。
でも、頭では分かっている。
仕事の真っ最中であって、それもあの様子からは緊急事態に対応しているのだろう。だから、私に反応する余裕など……。
(続く)
★第49話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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