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小説「観月 KANGETSU」#72 麻生幾

第72話
「タマ」(4)

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 固定電話が置かれている台の上に留められたカレンダーへ、七海はふと目をやった。

 ぎっしり書き込まれたスケジュールの中でその2日間だけが、ひと際大きな赤い丸印で囲まれている。

──10月31日と翌日の11月1日の2日間。

 城下町を幻想的な灯(あか)りに包む観月祭があと3日後に開催される。

 昨日、母が言っていたように、去年の観月祭が台風の影響で1日だけの開催となったので、観光協会や市役所のスタッフの方々はこれまで以上に張り切っている。

 観光協会の臨時職員の務めに入って5年目を迎える七海にとってこそ、1年でもっとも心躍らせる、しかし最も忙しい日を迎えるのだ。

 しかも、この足で本当に歩けるとしたら、七海の中で急に大きな力が湧いてきた。

 七海はもう一度、階段へ戻った。

 そして、今度は、普通の歩き方で登ってみた。

 いきなりはやり過ぎか、とは思ったが、想像以上にスムーズに2階に辿り着いた。

 2度ほど、顔が歪むほどグッとくる痛みは走ったが、それはほんの瞬間的なことだった。

 思わず微笑みがこぼれた七海は、調子に乗って、それから、2回、上り下りを繰り返した。

──大丈夫だわ!

 七海の顔に微笑みが零れた。

──町に出よう!

 そう決めた七海は、自分の部屋で化粧をした上で玄関へ向かった。

 そして下駄箱から最近穿いていない白いスニーカーを取り出し、携帯電話だけを手にして玄関のカギを閉めてから外へと出た。

 七海は、最初はやっぱり恐る恐る足を一歩ずつ踏み出していった。

 時折、鋭い痛みが走った。

 しかしそれにしてもさっきと同じく一瞬だけだった。

 最初の角を左に曲がって、昔、この辺りに杵築藩の国家老(くにがろう)の屋敷があったことから、「家老丁(かろうちょう)」と呼ばれる小路(こうじ)に入るまでも立ち止まることはなかった。

 少し歩いた先で目の前の視界が急に開けた。

 七海が視線の先で見据えたのはまず、すぐ先の「塩屋の坂」であり、そして次にその向こうで、北台エリアへと急角度で伸びる「酢屋の坂」だった。
「きつき城下町資料館」と、その先にある「南台展望台」への誘導路を右手に見ながら、七海は、何度か顔を歪めながらも歩き続けた。

 そして「塩屋の坂」のてっぺんに辿り着いた七海は、左右に伸びる「商人の町」を見下ろした。

 そして七海がまずやったことは、携帯電話で涼にSNSチャットを送ることだった。

 内容はたったひと言だった。

〈歩けた!〉

 予想外にも、ウサギが万歳するスタンプがすぐに返ってきた。

 大きく深呼吸をした七海は石畳を一歩ずつ下りはじめた。

 手にしていた携帯電話に電話の着信が入った。

 〈杵築市観光協会〉という文字がディスプレイにあった。

「七海さん、朝早うからごめんなさい。今、いい?」

 声の張りと滑舌のいい、観光協会の詩織の声が聞こえた。

「おはようございます。もちろんです。どうぞ」

「昨日、心配してなんべんも電話したんちゃ」

 詩織がまずそのことを言った。

「すみません。昨夜は、疲れて9時過ぎにはもう寝てしまって……」

 実際、昨日は、昼間から夕方までの幾つもの出来事──しかも夜は夜で土砂降りにあって大騒ぎする母の面倒をみてやったり──で精神的に疲れ果て、携帯電話の呼び出し音もバイブレーションも切って9時過ぎにはベッドに入っていた。

「昨日、パトカーが来たりと……いろいろ聞いたわ。大変やったね」

 詩織が七海の反応を待たずに続けた。

「それに、さっきニュースでやっちょったけんど、熊坂さんの奥さんを殺した犯人が自殺したやら……」

「そうみたいですね」

 七海は曖昧に応えた。

「こん静かな街が物騒なことよね……でも余計なこたあ聞かん。ただ、七海さん、あんたは大丈夫だったんね?」

「ええ。ご心配をおかけしてすみません」

 携帯電話を持ったまま七海は無意識に頭を下げた。

(続く)
★第73回を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。