小説「観月 KANGETSU」#50 麻生幾
第50話
松葉杖(2)
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「かつて世話になった東京の私立大学の学長である田辺君の父親から、“息子を更正させたい。助けてやって欲しい”という言葉に抗(あらが)うことができず……」
金原が吐露した言葉に、七海は腹立たしい思いになることはなかった。
それより、自分の責任を他人に押しつける、学長を務めるその父親にこそ怒りが込み上げた。
「しかし……まさか……ここに来ても、まだ同じことを……まったく!」
金原の溜息が聞こえた。
「いや、それどころか……」
七海は、金原が何を言おうとしているのかが分かった。
しかし自分の口からは言えなかった。
「君も刑事さんから聞いたか? 田辺君に殺人の容疑がかかっていることを──」
「私は……詳しくは何も……」
七海は誤魔化した。
心の中ではそう思っていても、軽々しく言えることではないからだ。
「もし、学内から、いや、私の教室から殺人犯が出たとなると──」
さらに大きな溜息を金原は吐き出した。
「モンカショウ(文部科学省)からの科学研究費助成金にしてももはや……」
金原は消え入りそうな声で続けた。
「田辺のお陰でムチャクチャだ!」
金原の態度が一変したことに驚いた七海は何も言えなかった。
「恩を仇(あだ)で返しやがって!」
金原が激しく毒づいた。
七海は戸惑った。
いつも温和な雰囲気の金原の姿からはまったく想像もできない雰囲気だった。
それよりなにより自分に言われてもどうしようもない。
あなたの優柔不断な態度で犠牲になったのは私ですよ!──という言葉が喉まででかかった。
しばらくの沈黙後、金原が口を開いた。
「私はもう終わりだ……」
金原の言葉は今度は沈んだものとなった。
「すまないが、しばらく教室は休みとする」
「あっ、教授──」
金原は七海の言葉を聞くこともなく電話を終えた。
しばらく休みとする、との言葉に七海は驚くことはなかった。
来月の亀塚(かめづか)古墳での学術調査はすでに準備を終えている。
気がかりなのは、金原教授の精神状態くらいだろう。
しかしそれについても、七海は、正直言ってどうだってよかった。
それより、数日後に迫った東京の投資財団の調査員に対して行う、自分にとってこそ重要なプレゼンテーションの作成に没頭できることこそ、ラッキーだと思った。
自宅前にタクシーが到着すると、その音に気づいたのか、急いで母が飛び出してきた。
「七海!」
松葉杖姿の七海を見た貴子は口を開けて目を見開いた。
「本当に大丈夫なの?」
慌てて駆け寄った貴子が七海の体を支えた。
「ドジっちゃった。大学の階段、踏み外しちしもうて……」
七海は、やはり母には本当のことは言えない、と思った。
トランクから取り出したバッグを運転手から受け取った貴子は、七海に寄り添いながら玄関の中へとゆっくりと足を進めた。
慣れない松葉杖を使って台所まで辿り着いた七海は、
「よっこらしょ」
と声に出して言って、なんとか椅子に腰を落ち着けた。
「ちゃんと説明しなさい」
対面に座った貴子が睨み付けた。
「な、何なん? それ?」
七海が視線を合わさずに言った。
「階段を誤ってどうかこうの、ってことやねえことくらい分かるわ」
母が、こういったところで勘の良さを発揮することを七海は思い出した。
亡くなった父もさぞかし大変だったろうと思うと堪らず苦笑した。
「人が心配しちょんのに、何よ、笑うち」
貴子が不機嫌な表情を向けた。
(続く)
★第51話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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