小説「観月 KANGETSU」#12 麻生幾
第12話
“オニマサ”(1)
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──走るしかない!
自分にそう言い聞かせた七海はグラスに残った梅酒を一気に飲み干すと、勢いよく飛び出した。
その直後だった。
──靴音!
明らかに誰かが背後から走ってくる。
最後の角を曲がった時、誰かに抱きつかれた。
俯いて悲鳴にならない声を上げた七海にその声が投げかけられた。
「七海、大丈夫?」
七海が顔を上げると貴子がそこにあった。
「どげえしたん? そげな青い顔しち……」
貴子は、七海の顔を覗き込むようにして言った。
「誰かおらんかった?」
七海はそう言って急いで辺りを見渡した。
「だあれんおらんちゃ。何かあったん?」
怪訝な表情で貴子が見つめた。
七海は頭を振った。
「ううん、別に何でんねえっちゃ。それより、お母さんこそなしここに?」
母には心配させたくはなかった。
「七海、携帯電話を家に置いちいったやろ? 涼さんが連絡取りてえけんって家に電話があったんちゃ」
「あっ、そうなん、ごめん」七海は大きく息を吐き出した。「わかった、帰ろう」
「草むらでお酒飲むなんて、ほんと、いい大人がやることやねえんに……」
貴子はブツブツと独り言を呟きながら自宅に足を向けた。
帰宅してまっすぐ自分の部屋に入った七海は、充電していたスマートフォンを手に取った。
だが、ダイヤルしようとしたその手が止まった。
──さっきの靴音、何だったんだろう……。
だが、その音は、母がやってきた方向から聞こえた。その母が誰も見ていないと言うのだから、私の錯覚だったのかしら……。
小さく息を吸った七海は、気を取り直してスマートフォンの画面を見つめた。
「今、いい? 電話くれたごたるけど?」
七海が訊いた。
「夜に自宅にかけちしもうて、ごめん、ごめん」
涼はまず謝った。
「さっき言うちょった事情聴取んことなんやけんど、さっそくだけんど、明日ん仕事ん帰り、署に寄ってもらえんかえ?」
「明日ね……」
七海は気乗りしなかった。
来週末の重要なプレゼンテーションまでは毎日、早めに帰宅して、その準備に時間を割きたかった。教授もちょうど出張中で時間の余裕はある。来月には、教授も含めた考古学教室の全員で1泊2日の、亀塚古墳での学術調査の予定があるが、いつにない手際よさ!と自分でも驚くほどにその準備をすべて終えていた。
だから、涼とのデートも我慢する決意もしていた。
でも、殺人事件が起こってしまったので、涼こそその余裕がないみたいだったが──。
「分かった。行くわ」
溜息をついた七海が言った。
一旦、引き受けると言った約束を破ることは自分の性にあわない、と七海は思った。
母は、“妙なところで頑固さぅ見するそげな姿見ち、お父さんにそっくりやわ”とよく口にする。
しかし七海の遠い記憶に残る父は、気難しいことなど一つも言わない、いつも優しい笑顔で自分を見つめる姿だった。
涼との電話を終えた七海は、すぐにパソコンに向かった。
コンピュータが起動するのを待つ間、七海はふと窓に足を向けた。
さっきの“足音”のことがふと気になったからだ。
遮光カーテンを開けた七海は、眼下へと目をやった。
自宅の東側の細い道路にある電柱の陰から、小さなツバが付いた台形のバケットハットらしき帽子を目深に被り、白っぽいマスクをした男がすぅっと動いた、いや、動いた気がした。
儚い月明かりの中で、しかも一瞬のことだったので、その男がそこに立っていて急に動いたのか、それともちょうど歩いて来た時にたまたま見かけたのか、そのどちらかを判断することはできなかった。
だが、七海は思い出したことがあった。
その男を見た瞬間のことだ。
男の片手が、帽子のツバを掴んでいた。まるで顔を見られるのを避けるために帽子をより深く被り直した、そんな風に見えた。
──もしかして……私が窓に立って見下ろしたことで、男は慌てて立ち去った? ということは、男は私を監視していた?
七海はゾッとした。
(続く)
★第13話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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