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怒らない父

 私の父は、王道を歩むことを至上とし、「オーソドックスでいい」が口癖の九州男児だ。弟が生まれた時に買ったシビックも、弟が大学卒業する時にやっと買い替えた車もカローラで、父曰く、日本で一番「オーソドックス」ということだった。オーソドックスという言葉を父以外の人から聞いたことがないのが、私たち家族のツボでもあり、いつでも笑えるネタでもある。

 そんな、王道派の父は航空関係の仕事をしていた。飛行機を一機飛ばすのに、どれだけの工程、規定や制約があるか、空港の仕組みや、飛行機を買いに行く話など、どれをとっても子供には面白い話だった。でも、それ以上に感銘を受け、またその後の私の考えをガラッと変えたのが、大人になった時に聞いた話だった。

 数年前の暑い夏の日、私は大きなお腹を抱えて、父と小学校の裏の坂を登っていた。ちょうど下の子を妊娠していて、実家に帰っていた。1人目からつわりがひどくて、2人目はつわりはないと聞いていたのに、ひどいつわりでかなり早い段階で実家に帰っていた。上の子は、近所の保育園にそういう母親を助ける制度があり、週に数回預かってもらっていた。つわりで何もできない母と、年寄りの祖父母だけと一日中過ごすのは、発達の面からしても良くないと判断したから、といえば聞こえはいいが、半分はつわりのひどい私が楽をしたかったというのもある。

 父はいつも私を心配して何かと気を遣ってくれていた。
「妊婦を預かり、何かあったら婿殿に申しわけが立たない」
というのが口癖だった。この日も、飲食物の一切を受け付けなかった上の子の時のつわりとは逆に、食べていないとひどい吐き気がするという、いわゆる食べづわりだった私が、妊婦健診の度に医師に体重増加を注意されているのを心配して散歩がてら、お昼を食べに連れ出してくれた。
駅前にできたカレー屋さんが美味しいと聞いていたので、そこに歩いて片道20分近くはかかるだろうか、ゆっくり歩いて行って、食べてきた帰りだった。

 暑い暑い、と汗を拭きながら上る樹木が覆い被さる小学校の裏の坂道は、うるさいほどの蝉がミンミン鳴いていた。大きくなる我が子に胃を圧迫されて食べたばかりのお腹が苦しい。腹ごなしの散歩になる、と背中をじっとり濡らし、のしのしと歩く父の一歩後ろをのんびり歩いた。帽子なんて若い時はほとんど被らなかったのに、さすがの日射に、バケットハットのような帽子を被ってを歩いていた。本当に似合っていなくて、それがとてもいい気がした。父はおしゃれには縁遠い人で、それが父の面白さであり魅力でもあるのだ。暑い日差しがカンカンと降り注ぐなか、覆い被さる木々が所々作ってくれる日陰がありがたかった。

 1人目の妊娠の時から父と過ごす時間が長かったので、本当に色々な話をした。父が仕事をしていた時の話はとりわけ様々な教訓があり、フルタイムの仕事はもう辞めてしまったが、バリバリと働いていた経験もある私には面白かった。働いている時に聞きたかったとちょっと後悔さえした。その時はその時で、目の前のことに必死だったのだから仕方ないのだが。

 父の仕事スタイルに一貫しているのは、決して怒ったり、偉そうにしたりすることがないということだった。
例えばこんなことがあった。私が小学生の頃、たまたま家族で入ったレストランに、父の職場の若い人が数名いたことがあった。すぐに父は、
「お父さんと一緒に働いている人だよ。」
と紹介してくれた。部下、ではなく、一緒に働いている人。
その時に感じた何か優しくて、胸に迫るような連帯感のような、説明できない感情は今でもはっきりと覚えている。
ほとんどの場合、父親とはこういうとき、偉そうにするものだろう。私は、本やテレビなどでそのことをそれとなく知っていた年頃だった。だからこそ、父が言ったその優しい偉ぶらない言葉が忘れられなかった。

 前の晩、夕食の時に父が、仕事をしていた時にあった話を面白おかしく話してくれていた。部下の1人が大きなミスをして、どう考えてもとある別の部署の上司にかなり迷惑をかけることになり、かなり怒られる、という状況だった時のこと。次の日の朝、その隣の部署の上司が部屋に入ってきた途端、父とその部下の男性と2人で猛烈に走っていき、大声で、
「すみませんでした!!!!」
と、謝った、というのだ。周りもただ事ではないその状況に驚き、謝られた本人も周りからの目もあるし、事情を穏やかに聞いてくれ、穏便に済ませてくれた、という話だった。その、すみませんでした!のおおげさな謝り方がが本当に面白くて、私がなんどもねだるので、父も調子に乗って何度も謝っては、母も一緒にゲラゲラ笑ったのだ。

 「ねえ。」
数歩先の父に、声をかけた。父のポロシャツの背中の汗染みが、ぐっと面積を広げていた。もうすぐ坂道も終わりだ。このところの日差しで、多少は日に焼けたのかもしれないが、元々色黒の父が振り返って立ち止まった。蝉の声が、一瞬止んだ。
「お父さんはさ、職場で怒ったりしなかったの?」
昨日の話を聞いて、ミスをした部下に、イライラしたりしないのか、ふと気になったのだ。というのも、私は働いている時に、先輩に迷惑をかけられたりして、怒り浸透だったことが何度かあったのだ。そのうち何回かは、怒りを抑えられず、若気の至りに至ったこともあった。
「ほら、昨日話していた部下だってさ。隣の部署の人に謝りに行かないといけないようなミスをして、イラッとしなかったの?怒らなかったの?」
父は、少し考えてから、はっきりと、
「お父さんは、絶対に怒らない。職場ではね。」
と言った。
「え、なんで?」
意外な答えに、ちょっと面食らった。
父は、少し立ち止まって、私が追いつくと横に並んで歩き始めて話した。
「その人がどういう状態かわからないからね。」
と答えた。はてなマークだらけの私の顔に、父は説明してくれた。
「その相手が、もしかしたらかなり精神的にきつい状況かもしれないし、何か大変なことがあった日かもしれないだろ。大切な人が亡くなったばかりとか、子供が病気だとか。そういうことはあまり人に話さないし、わからないだろ。そういうきつい時に誰かに怒られたり怒鳴られたらどうなるか、父さんは責任持てないよ。というのもね、曽野綾子のエッセイにそういう話があってね、若い時に読んだんだ。それから、考えが変わってね。」
私は父の、横顔を見て、なんだか今までの自分の考えや振る舞いがが全部浅はかで、幼稚で、どうしたらいいのかわからないような感覚を覚えた。

 父はもともと読書好きだったが、大学卒業後、就職してから、1日1冊読むこをと自分に課して、かなりの量の本を読んだらしい。そうなると、かなりの博識を想像するのだが、残念ながら、選ぶジャンルのせいなのか、そもそもの脳のつくりの差なのか、同じく読書家の母と比べるとその知識はなぜか雲泥の差とも言える状態なのが不思議でならない。そこもまた父の面白いところでもある。
 帰ってすぐ、その本を父の書斎から拝借して読んだ。何度も読んだであろう古い本だった。暑い夏の日に、涼しい屋内で読む本は最高だ。昔から、私は夏休みといえば図書館だった。暑い暑いと入ったら、ひんやりとして静かな図書館。大好きな本が山ほどあったから、好きに読み、ちょっと勉強もして。思いがけない本に出会うと胸がぎゅっとしたものだ。それは、そこからまた新しい世界がばばーっと広がる気がするからだ。昔は今のように弱冷房という感覚もなく、寒いくらいなので、時々外に出たりしたその温度差にクラっとした。その温度差が体に悪いとかそんなことがわかっていた時代でもなかったから、何度も味わって、私なりの夏!!を感じていた。

 話は逸れたが、そのエッセイは覚えている範囲で簡単にまとめると、こういう話だったと思う。あやふやなので、もう一度読んで今後訂正していきたいと思う。
 曽野綾子さんが若い頃に電車に乗っていると、目の前に若い男性が座っていて、その横にちいさな男の子が座っていた。その子の母親は離れた席に座っていて、男の子からは見えないことをいいことに、横に座った若い男の人にちょっかいをだしていた。男の人は、優しく、止めるように何度も言っていたが、あまりに頻繁なので、そろそろ怒るんでは、とはらはらしたほどだったが、ついに怒ることもなく、その男の子は母親に促されて下車して行った。曽野綾子さんは、とても気になって、どうして怒らなかったんですか?と聞いたそうだ。そうすると、男の人は、ちょっと長くなりますが、と話してくれた。
 その男の人が若い時、海苔の培養が盛んな地域にいて、アルバイトとしてその培養漁場を監視のバイトをしていたそうだ。いたずらっ子たちが海苔に悪戯をしにくるからだ。それを追い払う役目をしていた。
ある日、小型ボートで監視をしていると、1人の子供が泳いできて培養漁場に捕まっていたので、遠くから何度かだめだと声をかけたのだが、なかなか離れていかないので、怒って怒鳴るとようやく離れて行った。
 でもその後、その子は溺れて亡くなってしまったと言う話を聞いて、あれはいたずらをしようとしたのではなく、溺れかかっていて掴まっていただけだったのだと分かったのだ。
 その男の人は、その出来事から、決して誰かを怒ったり怒鳴ったりしないと誓ったのだと言う。
           〜間接引用:曽野綾子(1986)『生命ある限り』〜

 一気に読んで、顔を上げると、もう窓の外の日差しが夕方の雰囲気を纏っていた。しばらくレースカーテンを見ながらぼーっとしていた。私は色々間違って生きてきたような気がした。これまで、誰かに激しく怒ったり怒鳴ったりしたことは、家族以外には、ないと思う。けれども、相手の状況を気遣うことなく発言して傷つけたりしていたかもしれない。この話を知らずに、生きていき、誰かの人生を大きく変えてしまったりするのでは、と思うとゾッとした。感じ方や考え方は人それぞれ、育ってきた環境でも、同じ環境で育っても変わってくる。自分が怒っている、理不尽に感じていることを伝えるのは大切なことだと思う。だけど、それをどう、いつ伝えるのか。相手を気遣って伝えられるようになりたい。そう思った。そして私も、決して人に声を荒げることはしまい、と誓った。私にとって、人生そのものを考え直し、今後の自分のあり方をじっくりと考えることができた出来事だった。

 父は決して出世はしなかったが、人柄という点ではかなり出世したのだろうと思う。あの頃まだ職場環境的には厳しかった女性社員にもその能力が発揮できるよう心を砕いていたこともあり、転勤の際は、女性社員だけで送別会を別に開いてくれたりしたらしい。いつも偉ぶらない、何事にも一生懸命な父はいつでも私の自慢の父である。ただ、もちろん家族には怒鳴るし怒るし、夫婦喧嘩もしょっちゅうだ。でも、家族にはそうであっていい。そして、そういう幾つかの顔を持つことが、人間として生きる誰にでも、面白さや深みを与えてくれているのかもしれない。


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