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『ダークナイト』より|善と悪を脳科学で読み解く

人間を構成しているものは何か。それは水素、酸素、炭素、窒素の4つの元素である。我々は水を飲んで水素を摂取し、呼吸をして酸素を、植物や植物を食べた動物を食べて炭素を、土で育った作物を摂取して窒素を得る。
これら4元素を体内に取り入れることで成り立っている我々は、それぞれ異なる身長や体重、性格、バックグラウンドを持っている。そしてその中でも他者に寛容な人と狭量で残忍な人が存在する。

映画『ダークナイト』に登場するバットマン(ブルース・ウェイン)とジョーカーは、善悪の対比を体現する存在だ。突き詰めれば同じ4種類の元素で構成されている彼らにも、ある決定的な違いがある。脳構造だ。脳科学において、利他的な人と利己的な人の差は脳の働きの違いによって見い出せると言われている。では、バットマンとジョーカーの違いも脳科学に当てはめて考えられないだろうか。

脳科学では、善と悪の違いは共感性にあるとされる。他者に共感する際に活性化する脳の部位はMRIの観察によって特定できる。詳しくは後述するが、共感性の向上や低下は、遺伝による生物学的要因や成長過程における社会的要因などによって変化する。つまり、共感性の低さを遺伝として受け継いでも、その後の社会生活によって共感性を育むことは可能なのだ。現代では心理テストや遺伝子検査、MRIなどによって、自分の共感性がどういった要因から影響を受けたのかがわかる。
脳の部位の中でも共感の回路は複数あり、それぞれが他者に反応する際に異なる役割を担っている。共感の回路の名称と役割は、大まかに以下の4つに分類できる。

体性感覚皮質:他者の体の痛みに本能的に反応する
下頭頂小葉:人の動きや感情を映し出す
上側頭溝:他者の目の動きや表現を読み取る
側頭頭頂接合部:他者が考えていることを想像する

これらの回路が活性化または不活性化する理由として、主に「生物学的要因」「心理的要因」「社会的要因」の3つが挙げられる。

生物学的要因:遺伝子の違いにより、他者の表情を読み取る能力や、攻撃性を抑制する酵素の生成量に差が生じる。約7割が遺伝に起因するという推察もあるが、脳の損傷や長期間のストレスも一因となりうる。
心理的要因:遺伝的に共感性が乏しくても、幼児期の生育環境によっては社会性のある非暴力的な人間に育つ可能性がある。逆に幼児期のトラウマ(恐怖や空腹)は、その後の共感反応に長期的な影響を及ぼすことがある。
社会的要因:友人や家族が悲しんだり泣く姿を見て共感する、人の痛みを自分の痛みであると認識すると共感の回路は活性化する。しかし戦争などによって集団が敵対心や優越感を持つ傾向が強まると、共感性が失われることもある。

ブルース・ウェインは幼少期に井戸に落ちてコウモリの大群と遭遇し、以後その恐怖が強いトラウマとなっている。しかし、彼の共感の回路が不活性化しなかった理由のひとつとして、遺伝的要因があると考えられる。またブルースの父親のトーマス・ウェインは自分の利益よりもゴッサムに住む人々の利益や幸せを優先させる利他的な人物であり、息子であるブルースも彼の利他性と共感性を遺伝的に引き継いでいる可能性が大いにあるのだ。

共感性における脳の活動について、もうひとつ言及したいのが「前頭前皮質」「扁桃体」だ。「前頭前皮質」は前頭葉の前側に位置しており、自分と他者の視点を比較する部位を「前頭前皮質腹内側部」、社会的な状況を察知したり、報酬と罰に対する感受性や体の痛みを認識する部位を「眼窩(がんか)前頭皮質」と呼ぶ。前頭前皮質は共感性・モラル・社会性などを司る部位であり、この部位が損傷を受けると衝動性や攻撃性が高まり暴力を振るいやすくなることがある。
一方「扁桃体」は側頭葉の内側の奥に位置している神経細胞の集まりで、怒りや不安など情動反応の制御を司る部位だ。サイコパスの犯罪者は通常の犯罪者と比べて扁桃体の活動が弱く、灰白質の容積も約5〜7%少ない。この傾向をバットマンとジョーカーに当てはめると、利他的なバットマンは前頭前皮質と扁桃体の活動が強く、ジョーカーは弱いと言える。

さて、彼らの脳構造の違いについて一考したが、心理学的に言及するとどうか。2016年のオークランド大学の調査では、嘘をつく理由として以下の集計結果を発表した。

「個人的な過ち」は自分を守るための嘘、「経済的な利益」「個人的な利益」は何らかの利益を得るための嘘である。では、ジョーカーがついた嘘はどこに分類されるのか。個人の見解だが、筆者は「経済的な利益」や「個人的な利益」はもちろん「ユーモア」あるいは「悪意」「不明」など様々であると推測する。銀行強盗の際には「経済的な利益」のために自身がジョーカーであることを隠し、ハービー・デントを仲間に引き入れる際には「個人的な利益」と「悪意」のために嘘をついた。自身の生い立ちに関しては「ユーモア」と「不明」の両方を含んでおり、彼の嘘には目的があっても一貫性はないと言える。

脳科学では、常習的に嘘をつく人はそうでない人より前頭皮質の神経線維の量が20%以上も多いと言われている。つまり、不正直な人は正直な人よりも脳内のネットワークが発達しているということだ。これは脳内に発達したネットワークがあるがゆえに普通の人よりも簡単に嘘を思いつく、もしくは繰り返し嘘をついた結果、脳内のネットワークが発達したとも考えられる。
また不正直な人の脳では、報酬・快感・嗜癖・恐怖などを司る側坐核(そくざかく)という神経細胞が活発であるとの調査結果も報告されている。つまり欲に駆られると嘘をつきやすくなるということだ。
ノーラン監督の出身校でもあるユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの神経科学者ターリ・シャーロットが行った実験では、常習的に嘘をついているとストレスや居心地の悪さに次第に慣れ、嘘をつきやすくなるという脳のメカニズムが明らかになった。更に、嘘を重ねれば重ねるほど扁桃体の反応が弱まることもわかった。人は一度嘘をつくと罪悪感や後ろめたさに慣れ、繰り返し嘘をつくようになりかねないのだ。

ジョーカーが嘘に嘘を重ねるのは、元々の人間性や遺伝子、生い立ち以外にも、こういった脳の活動や神経細胞が起因しているのかもしれない。