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『インセプション』より|「虚無」とは何か

 1967年、アーティストのワルター・ピッヒラーは『透視ヘルメット』という作品を制作した。彼はこの作品について、以下のように述べている。

「主体をとり囲む環境は、すべて建築と呼びうる。すなわちフィジカルな環境もフィジカルではない環境も(すなわちバーチャルな環境も)、主体にとっては等価であり、それらの間に根本的な差異は存在しない。」

これは我々が存在する環境、VRや夢なども含め、すべてが「建築」であるということだ。
翌年、彼とプロジェクトを共同したハンス・ホラインは『すべては建築である』と題した論文を発表した。両者とも「環境とは、主体の感覚によって生成される主観的な存在である」と説いている。また、オーストリアの哲学者エトムント・フッサールも、自身が創始した哲学理論(現象学)の中で、我々が対象をどのように見て、どのように捉えるのかについての重要性を論じている。
彼らの言葉を信じるのであれば、『インセプション』における夢の世界、とりわけ潜在意識の具現化である虚無もまた「建築」であると言える。では、この虚無という概念上の「建築物」を解体し、構造として理解できないだろうか。

│ 虚無とは? ダンテ著『神曲』との親和性

劇中で虚無は「limbo」と呼ばれているが、これは「忘却の彼方」、キリスト教においては「死んだが罪を犯したため天国には行けず、神からの救済を待つ人が留まる場所」という意味を持つ。イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリが執筆した『神曲』という文学書の「地獄編」にもlimbo(日本語訳では「辺獄」とされる)についての記述があり、そこでは「洗礼を受けなかった者が呵責も希望もなく永遠の時を過ごす場所」とされる。

『インセプション』の劇中で階層が複数に分かれているように、『神曲』も「地獄編・煉獄編・天国編」の三部構成になっている。地獄編では更に細かく構成が分かれており、主人公が仲間と共に地獄巡りをするというストーリーだ。『神曲』では辺獄は地獄の第一圏に位置しており、主人公のダンテは地獄から煉獄、煉獄から天国へと階層を上がっていく。もし仮に『神曲』が『インセプション』の階層や虚無のモデルになっているとするなら、それぞれの階層を抜けて次の階層に行くという点を踏まえても、

・天国=現実
・煉獄=第一階層~第三階層
・地獄=虚無

であると考えられる。

『神曲』と『インセプション』は、他にもいくつか類似点が確認できる。まず『神曲』の主人公ダンテと『インセプション』の主人公コブは、どちらも35歳の男性である。コブの年齢は劇中では明示されていないが、スクリプトでは35歳との記載がある。
更に、ダンテは彼の師匠と共に辺獄へ行き、そこで4人の偉大な詩人と出逢う。師匠と4人の詩人はダンテを仲間に迎え入れ、計6人となる。ここで注目したいのは、『インセプション』でも当初コブはアーサーと2人で組んでおり、後にサイトー、アリアドネ、イームス、ユスフの4人を仲間に迎え入れ、計6人となった点だ。同じ年齢と性別の主人公が、辺獄で同じ人数を仲間にするのは、例え偶然だとしても非常に興味深い。
また『神曲』でダンテが地獄巡りを終えたのは聖土曜日の日没だが、『インセプション』でコブとモルが虚無から現実に帰ってきたのも日没である。

このように『インセプション』は『神曲』の世界観や内部構造をはじめ、主人公や彼を取り巻く登場人物からもインスパイアされた可能性が考えられる。

│ トラウマについて

コブは自身が行ったアイディアの植え付け(=インセプション)によって、妻であるモルを亡くし、そのトラウマと罪悪感を抱えて葛藤するキャラクターだ。虚無という牢獄の中ではモルを生かし続けられるが、彼女はコブのトラウマの具現化、つまり幻影に他ならない。
トラウマは「心的外傷」とも呼ばれ、戦争や災害を体験したり、事故や犯罪に巻き込まれる、家族や友人や大切な人の喪失体験など、大きな精神的ショックや恐怖が原因で起きる心の傷を指す。医学において、トラウマによる精神的な変調は「トラウマ反応」と呼ばれ、患者は以下のような症状や変化が生じる。

①感情や思考の変化:現実が受け止められない、悲観や落ち込み、自責、注意散漫など。
②身体的な変化:過度の緊張状態、動悸、不眠、めまい、発汗、吐き気、頭痛など。
③行動の変化:トラウマとなった出来事を思い出す場所を避ける。薬やアルコール等に依存する。

コブは冒頭で「列車は嫌いなんだ」と言って同行していた仲間たちより先に新幹線から降りたり、夢の世界でモルと会うために常習的に鎮静剤を使用している(=行動の変化)。また第三階層でモルが現れた際には現実と夢の区別がつかなくなる、モルが死んだのは自分のせいだと自責の念に駆られる(=感情や思考の変化)など、各シーンでトラウマ反応が生じている様子が確認できる。

│ 虚無と現実、それぞれの存在意義

コブが虚無に留まらず現実に帰ろうと奮起するのは、我が子であるフィリッパとジェームズの元へ帰るために他ならない。現実で父親の帰りを待ち続けている子どもたちこそ、コブの唯一の希望であり、活動原理だ。モルを死に追いやってしまった過去の過ちを悔い、受け入れ、虚無を捨てて現実に戻ってくるという行為は、トラウマからの解放であり一種の贖罪でもある。

モルがアリアドネを敵視して攻撃的になるのは、同じ女性だからではなく、アリアドネがコブを現実に引き戻そうとする人物だからだ。虚無でしか生きられないモルにとって、アリアドネは自分の居場所を奪う危険人物である。コブが過去と向きあおうと葛藤するからこそ、虚無にしか居場所がないモルは焦り、攻撃的になるのだ。例え潜在意識の中の架空の存在だとしても、唯一自分が生きていられる場所を奪われるとなれば、危機感を感じて他者への警戒心が増すのは当然である。

虚無はコブのトラウマや欲望を実体化した世界だが、最終的にコブが過去を受け入れて現実に戻ってきた過程を振り返ると、虚無はあくまでも通過点であり、葛藤や苦悩から抜け出すため、また現実と向き合うために必要不可欠なプロセスであったと言える。コブの目的地が「現実」なら、「虚無」は目的地に着くまでの最後の難関だ。マラソンに例えるなら、虚無は終盤の上り坂、そして同時に給水所でもある。現実という名のゴールに着くためには、モルがいる給水所を離れ、力と知恵を振り絞って坂を越える必要がある。
大きな苦難を乗り越えるためには、誰しもまずその苦難と真摯に向き合わなければならない。自らの弱さや過去と対峙し、乗り越えた者だけにしか見えない景色がある。コブにとっては、その景色こそが自分の子どもたち、フィリッパとジェームズだったのだ。