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医学と建築で紐解く『ダークナイト・ライジング』

火事場の馬鹿力

ことわざは、日常生活の真理を穿つ教訓として古くから言い習わされてきた。日本ことわざ文化学会によれば、日本には5万〜6万ものことわざが存在するという。その中でも我々がよく知ることわざのひとつとして「火事場の馬鹿力」がある。火災のとき普段からは想像もつかないほどの力を出して重い物を持ち出したりする様子を表す言葉だが、この現象は世界各国で実際に確認されている。
1982年、アメリカのジョージア州では車の下敷きになった意識不明の息子を助けるため、母親が5分間シボレーを持ち上げ続けた。また1988年にはハワイで墜落したヘリコプターの機体からパイロットを助けるため、同僚が1.4トンの機体を持ち上げた。Hysterical strength(ヒステリックな強さ)と呼ばれるこの現象は、災害時や生命の危機が迫ったとき我々人間に普段の何倍もの力を発揮させる。

│ 奈落で発揮された驚異の力

「奈落」は『ダークナイト・ライジング』に登場する地下牢獄の名称で、空は見えるものの脱出は不可能に近く、希望と絶望が表裏一体となった場所だ。ベインの策略により奈落に落とされたブルースは命綱をつけない(つまり落ちたら即死する)状態で崖をジャンプして渡り、見事地下深い奈落から這い上がった。これはいわゆる「火事場の馬鹿力(=Hysterical strength)」に相当するが、医学的に見て彼の身体の中では一体何が起こったのだろうか。

人間の体は通常100%の力を発揮することはなく、最大でも70〜80%程度で動いているとされる。常に100%の力を発揮すると皮膚や骨や靭帯といった組織が損傷してしまうため、普段は脳がリミッターとして働き、力をセーブしているのだ。しかし生命の危機が迫っているときには腎臓の上にある副腎髄質という器官からアドレナリンが大量に放出され、運動能力が増強されてフルパワーを発揮できるようになる。アドレナリンは興奮やストレス、怒りなどを感じたときに放出されるホルモンの一種だ。血液中に放出されると心筋収縮力の上昇、血管の拡張、瞳孔の拡大など、身体のエネルギー代謝や運動能力を一時的に高める作用がある。
ストレスを感じたときに放出されるホルモンは他にもある。コルチゾールだ。コルチゾールは血圧や血糖レベルを上昇させ、緊急時に不要な臓器の活動を抑制する働きがある。
ブルースが奈落で死の恐怖に直面した際、彼の体内ではアドレナリンやコルチゾールが大量に放出されたことによって身体能力が増強し、命綱をつけていたときには不可能だった脅威のジャンプ力が生み出されたと考えられる。

│ 奈落の建築様式/チャンド・バオリの階段井戸

奈落では面白い建築様式も確認できる。劇中に登場する奈落は、インドやパキスタンなど乾燥した土地によく見られる「階段井戸」という建築様式でできている。日本で井戸と言うとポンプが取り付けられた汲み上げ井戸や、桶や綱といった揚水器具を使う井戸をイメージしやすいが、階段井戸は地面を掘り下げて階段を作り、直接水面にアクセスできる造りになっている。階段井戸は神々に祈りを捧げる沐浴場として、また夏の間は王宮の避暑地としても利用されていたため非常に壮麗で凝った造りのものが多い。

インドにあるチャンド・バオリという階段井戸は今から千年以上も前に建てられ、深さ約30メートル、上から見ると逆四角錐のような形状になっている。奈落はチャンド・バオリに酷似した階段や支柱が数多く見られ、奈落が昔は井戸として使われていた可能性を示唆している。

チャンド・バオリの階段井戸。無数の階段が地下の水面まで続いている。
奈落の底部の模型(筆者撮影)。チャンド・バオリと同様の階段が確認できる。

なお、チャンド・バオリはインドのラジャスタン州ジャイプールから東に約90km、アバネリという小さな村にある。奈落から這い出たブルースが立っている場所は同じくラジャスタン州にあるメヘランガール城塞という史跡だ。『ダークナイト・ライジング』には、ロケ地になったインドの建物や建築様式がさり気なくも色濃く反映されている。

インドのラジャスタン州にあるメヘランガール城塞。奈落から這い出たブルースの背後にこの建物が見える。

│ イエメンの「地獄の井戸」と奈落の共通点

奈落の形状はイエメンにあるバラフートの井戸にも非常によく似ている。これは地獄の井戸(Well of Hell)の異名を持つ幅約30メートル、深さ約112メートルの巨大な穴だが、実際には井戸ではなく石灰岩や鉱石の多い地域で地下の岩盤が崩落したことにより生じる陥没孔(=シンクホール)である。この井戸については2021年9月にオマーンの洞窟探検隊が人類史上初めて穴の底まで到達したとニュースでも大々的に報道されたため、ご存知の方も多いだろう。

バラフートの井戸は穴の形状や深さ、円状の入口など、まるで映画に出てきた奈落そのものである。しかも「井戸には悪魔が潜んでおり、亀裂から不幸の種が出て来て、地上の生命を脅かす」との言い伝えがあったというから驚きだ。井戸に潜んでいた悪魔がベインやミランダで、そこから這い上がった彼らが地上の生命を脅かしたと考えると、映画のストーリーと井戸の言い伝えが合致するようにも思える。

ダークナイト3部作では歴史的建造物や近代建築など様々な建築物とその様式が確認できる。ストーリーの「背景」に注目するのも、この映画を楽しむひとつのポイントになるだろう。