10歳前後のトラウマの正体をようやく見極めたらしいということ

今回、グロテスクなお話をします。微妙な暴力シーンもあります。


8月31日の夜にという企画なわけですが、夏休みの終焉を恐れる若い方々に私から申し上げられることといえば、これです。

「子供・若者とは世の中の大人がそうだと言い張るほど自由な存在とは限らず、むしろ抑圧にまみれて過ごしている可能性が高い。つまり、今子供・若者として抑圧を感じながら過ごしているあなたが「これでも人生の中で最も自由な時期だとでもいうのだろうか」と絶望する必要はない。幸福追求への執念を捨てないでほしい」

そう、私の子供・若者時代とは抑圧されたものでした。時間的には自由があったのかもしれませんが、行きたくない場所、食べたくないもの、見たくないもの、やられたくないことを押し付けられ、しかもそれに対する不平を偏屈としてなじられ続けていました。

おおむね家族からではなく──企画に忠実なことに──学校におけるもの、特に小学3・4年当時の担任の作り上げた環境によるものです。


お読みの皆様は、なんらかの特定の怪物がたびたび夢に出てきて皆様の安寧を脅かすということはおありでしょうか。

タイトルにあるとおり、私の場合その怪物とは10歳前後で植え付けられたトラウマ的存在……いや、器物です。そう、あれはただの器物なのです。

その器物とは、人体模型です。

どちらかというと不快な物体であるということは多くの皆様が賛同してくださるとも思いますが、私と懇意にしてくださっている古生物学・動物解剖学に親しまれている方々からは、まふが何かおかしなことを言いだしたと思われても仕方がないでしょう。

先程念を押したとおり、というか自分でも念を押さないとこれについて書き進める勇気が出ないのですが、あれはただの器物、しかもビーカーや昆虫標本と同じ、理化学関係の器物なのですから。

しかし、幼少の頃から人体解剖関係の不気味さと心霊関係の怪異に敏感だったこと、私が10歳前後だった頃に小学生の間で怪談ブームだったこと、さらに先述のとおり学校で抑圧された立場にあり不安定な精神状態にあったことまであいまって、それを単なる器物と冷静に捉えることなど当時の私には不可能だったのです。

ただしばらくは「そういう恐ろしい物体がある」ということを知らされ、それに怯えながら過ごすにとどまっていたのですが。

理科の授業においてそれを実際に見せられるにいたって、私は完全にパニックに陥りました。

「見る者にとって最も恐ろしい姿に見える怪物」というのはファンタジーによくある設定だと思うのですが、私の場合それがフィクションではなく現実の日常に唐突にブチ込まれてきたわけです。

しかもまあ周囲の理解のないこと!!!

泣き叫ぶ私に理解を示すクラスメイトは一人としておらず、それどころかノートにそれの絵を描くまで授業が終われんとまで言い渡される始末です。

普段なら得意中の得意であるはずの理科の授業において、心臓と称するなんかよく分からん塊の絵を描いてしのがにゃならなくなったことは、私の理科のノートに残されたひどい汚点でした。本当は人体の構造などもっときちんと理解しているはずなのに。

……というようなことがあって以来、たびたび夢に「恐ろしい怪物としての人体模型」が現れ、小学校の校舎というものもそれが潜んでいる危険な場所としてしか出てこなかったわけですが。

こうして今文章に起こすと、それ(いちいちちゃんと名称を打ち込むのも嫌というわけです)が私にとって小学生の頃の抑圧の象徴であるということになるのは明白でしょう。

しかし、つい最近、ほんの数日前まで、そのことを把握できず、なぜこうもいつまでも苦手であり続けているのか思索していたのです。

そう、いまだにそれだけは苦手なのです。突然それが置いてあるのを目の当たりにすると、私はまず驚愕し、それから怒りがわいてくるのです。「なんでこんなもの急に置くんだ」と。

驚愕して、怯えるのとは少し違うのです。

急にそれを見せられることが、何か人権侵害でもあるかのような気持ちになるのです。

例の出来事以前そして以降も数年は同じように苦手であった骨格のほうは平気になった(といっても全身の骨格が置いてある部屋で寝たくないですが)にもかかわらず。

単にグロテスクだから怒りを覚えるのではないわけです。やはりこれは例の出来事のことがそれそのものと私の中で強く結びついているのでしょう。恐ろしいものを恐ろしいと言うことさえ踏みにじられたあのときのことに。

考えてみればそれを置く人というのは皆よかれと思って置いているわけです。私が懇意にしている理化学系の雑貨店の店長さんも、美術解剖学の先生でもある画家さん(こっちのは割とデザインが違うのですが)も、あのときの理科教師もです。役に立つ器物のはずなのですから。

ならば本当に怒るべき相手は、個別のそれを置いている人々ではなく、あのとき私の「恐ろしい」という気持ちを封殺する環境を作り上げた、担任です。

(実際に私に冷たくしたクラスメイトは担任に扇動されているだけのただの子供だったという解釈です。)

オラァ!!!!!

失礼。今妄想の中でそれもろとも担任のツラに全力パンチをブチかまして粉砕しました。怪物ではなく単なる器物と分かった今、妄想の中で壊すのに躊躇はありません。

でも今後もそれへの恐怖にさいなまれたときは同じようにしてやればいいと分かったのです。

あいつを許さんという気持ちを、それにぶつけてやるだけです。

今の私には自由な時間こそ充分にはありませんが、行きたいところに行き、やりたいことをやり、買いたいものを買い、えっちなもの……あー、なぜ限定する……見たいものを見て、食べたいものを食べ、そして、言いたいことを言い、避けたいことを避ける自由が、小学生の頃とは比べ物にならないほどあります。

苦手なものから目をそらしてもいいし、目をそらさせてくれないと絶望し恐れる必要がもうないのです。

今抑圧されている若い皆様も、このような自由を勝ち取っていける可能性があると信じます。

今抑圧してきている連中に面パンブチかましてやるくらい勢いのある幸福追求への執念を、持っていてもらえればと思います。……本当に殴っちゃだめですよ。

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