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SEIJI|花を食べてこの世を生きたい

Text|嶋田青磁

 先日、霧とリボン・オンラインギャラリーで行われたイラストレーターruff様の個展は、巻頭詩や作品紹介エッセイを書かせていただいたこともあり、わたしにとって特別な体験の一つになった。

 多くのすばらしいイラストがお披露目されるなか、実をいうとわたしは、ある作品にすっかり心を奪われてしまった。それは、少年がナイフとフォークでもって花を食すさまを描いた絵であった。

ruff|花食主義(2022年)

 花を食べる、ということは——
 本来、生きるための栄養を摂る行為であるはずの〈食事〉とはまったく違う意味をもつ。もちろん、サラダやデザートの彩りとしてエディブルフラワーを食すことはあるが、わたしが思う〈花食〉は、もっと儀式的で、菫色をした死の香りをうっすらと漂わせる行為であり、〈食事〉の形式をとりながらも、その意味を根底から覆すものである。
 わたしたちは花を食べるだけでは生きられない。花以外の食べ物を拒絶した先にあるのはただ、死(タナトス)のみである。それでも、わたしは花だけを食べて生きられたらいいのにと願う。米やパンなんてほんとうは身体に入れたくない。さらに言ってしまえば、食事のことも考えたくない。美しいものだけを美しく摂り入れたいのだ。こうした考えは、現代の片隅で生きる一耽美主義者のわがままにすぎないだろうか。

ruff|花食主義(2022年)

 先に述べたように、花食は希死念慮とも結びつきがちであるが、どちらかといえばゆるやかな反出生主義の方が近しいような気がする。わたしは楽観的なたちなので、自分がこの世に生まれたことを嘆くということはないが、一度生まれてしまったのだから、人生という幻想の城をできるだけ美しいもので構成したいと考えている。そうすると、やはり必然的に、花を食べる行為への憧れがあらわれ出てくるのだ。
 また食事とは、自らが〈生物〉であることを定期的に自覚させられる機会だと思っている。(特にわたしは、手でものを食べているときにこの意識を強く感じる。)わたしがもつゆるやかな反出生主義は、同時に「無機物(人形)になりたい」という願望とも両立しているのだが、食事のたびに自分が有機体であることを意識させられるのはちょっとした憂事だ。花そのものは無機物ではないにしろ、美しいものを摂ることで、わたしの信じる美しい身体に少しでも近づける気がして——つまり、その身体というのは彫刻や人形のもつ硬質な身体である——もしも食べるならどの花がいいか、なんて夢想を巡らせながらその甘美な幻想にうっとりとする日々である。

 毎日花を食べることは叶わなくとも、それに近いことならできる。味覚ではなく、視覚や聴覚から美しいものを摂取することも、花食に似た行為なのではないか。わたしはそう考えている。わたしたち花園を心にもつ者にとってはときに生きづらいこの世の中であるが、絵画や音楽を愛することは、確実にわたしたち自身を豊かにし、精神を深淵から救い出してくれる。そういう意味では、自分だけの部屋にお気に入りの絵を飾ったり、ひとり音楽を楽しんだり、日常の傍らにいつも美しいものを存在させることは非常に重要であると思う。でも、可能であれば日常のすべてを裏返して、聖域の中で〈美〉だけに囲まれて生きたいと願ってしまうのが、耽美主義者のどうしようもない性(さが)である。

嶋田青磁|詩人・フランス文学修士課程在籍 →note
学部在学中にピエール・ルイス『ビリティスの歌』に出会い、詩の魅力に憑かれる。19世紀末の頽廃・優美さを求め、研究の傍ら詩作活動中。オンライン上のストリート「モーヴ街」では、図書館「モーヴ・アブサン・ブック・クラブ」にて司書をつとめている。

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