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平安遷都の謎に迫る ―桓武天皇の心の中は―

九條です。

西暦645年の乙巳の変(とそれに続く大化改新)以降の天皇の居所である「宮」の変遷を見ていくと、西暦794年の平安遷都に隠された秘密を垣間見ることができるのかも知れません。

少し長くなりますが(2,740文字)、乙巳の変から平安遷都までの歴代天皇の宮の変遷を、大雑把にごくごく簡単に見ていきたいと思います。

※面倒であれば以下の一覧表は飛ばして読んでいただいても差し支えありません。^^;


【歴代宮都一覧(大化改新以降)】


皇極天皇
(第35代)〔女帝〕
在位:642年〜645年
宮:飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや(奈良県明日香村)
※645年に乙巳の変勃発(この事件を受けて退位)

伝飛鳥板蓋宮跡

孝徳天皇(第36代)
在位:645年〜654年
宮:飛鳥板蓋宮/難波長柄豊碕宮なにわのながらのとよさきのみや(大阪市)

斉明天皇(第37代)〔女帝〕
在位:655年〜661年
宮:飛鳥板蓋宮(火災)→飛鳥川原宮→後飛鳥岡本宮のちのあすかおかもとのみや(飛鳥板蓋宮と同じ場所)
※皇極天皇の重祚ちょうそ

天智天皇(第38代)
在位:668年〜672年
宮:近江大津宮(滋賀県大津市)

弘文天皇(第39代)
在位:672年(約11ヶ月間の在位:実質は約半年)
宮:近江大津宮(滋賀県大津市)
※この人が大友皇子おおとものみこ。壬申の乱で負ける。

天武天皇(第40代)
在位:673年〜686年
宮:飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや(奈良県明日香村:飛鳥板蓋宮と同じ場所)/難波宮(大阪市:難波長柄豊碕宮と同じ場所)
※この人が大海人皇子おおあまのみこ。壬申の乱に勝つ。

持統天皇(第41代)〔女帝〕
在位:690年〜697年
宮:藤原宮(奈良県橿原市)
※藤原京遷都

藤原宮跡

文武天皇(第42代)
在位:697年〜707年
宮:藤原宮(奈良県橿原市)

元明天皇(第43代)〔女帝〕
在位:707年〜715年
宮:平城宮(奈良県奈良市)
※平城遷都

復元された平城宮大極殿

元正天皇(第44代)〔女帝〕
在位:715年〜724年
宮:平城宮(奈良県奈良市)

聖武天皇(第45代)
在位:724年〜749年
宮:平城宮(奈良県奈良市)→恭仁くに宮(京都府木津川市)→紫香楽宮しがらきのみや(滋賀県甲賀郡)→平城宮

孝謙天皇(第46代)〔女帝〕
在位:749年〜758年
宮:平城宮(奈良県奈良市)

淳仁天皇(第47代)
在位:758年〜764年
宮:平城宮(奈良県奈良市)

称徳天皇(第48代)〔女帝〕
在位:764年〜770年
宮:平城宮(奈良県奈良市)
※孝謙天皇の重祚ちょうそ

光仁天皇(第49代)
在位:770年〜781年
宮:平城宮(奈良県奈良市)

桓武天皇(第50代)
在位:781年〜806年
宮:長岡宮(京都府向日市・長岡京市)→平安宮(京都市)
※長岡京遷都→平安遷都(難波宮廃止)


こう見てくると、大化改新以降の宮の変遷は、

飛鳥地域(大和国:まとめて「飛鳥京」なとどと言います)→難波宮(摂津国)→飛鳥地域(大和国)→近江大津宮(近江国)→飛鳥地域(大和国)→藤原宮(大和国)→平城宮(大和国)→(※聖武天皇ウロウロして)→平城宮(大和国)→長岡宮(山城国)→平安宮(山城国)

と移り変わったことが分かりますね。このうち近江大津宮は、大陸・朝鮮半島情勢に対応して我が国においても防衛の目的などで遷都したものとも考えられています。

しかし壬申の乱に勝利した天武天皇は近江大津宮を捨ててすぐに故郷の飛鳥地域に宮を戻しています。その後も藤原宮・平城宮と天皇の宮は基本的に大和国から外へは出ていません。安定して大和国内におさまっているようです。

※例外的に聖武天皇がウロウロした理由についてはよく分かっていませんが、当時、天然痘の大流行や藤原広嗣の乱、大地震(天平六年夏四月「畿内七道大地震」)発生などの社会不安が原因ではないかとも言われています。しかし結局は平城京に戻って東大寺大仏を建立して聖武天皇は落ち着いています。

ちなみに難波宮は外交・物流上の理由から(その要衝に当たるので)地政学上必要とされて置かれた「複都制の陪都ばいと」だと考えられています。

いっぽう桓武天皇は、大和国から出て山背やましろ国(のちに山城国と改名)に宮を置きます。長岡宮も平安宮も山背国ですね。その後、平安宮が置かれた平安京は「千年の都」として他に遷ることなく存続し続けます。

じつは、天皇家の系譜を見て行くと、天武天皇以降、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の歴代天皇はずっと天武天皇の流れを汲む「天武系」の天皇だったのです。

これに対して桓武天皇は天智天皇の流れを汲む「天智系」の天皇でした。しかも桓武天皇はその出自にも劣等感を抱いていたようです(桓武天皇の母は渡来系氏族)。そして桓武天皇の代で天武系の流れは途絶えます(これは皇統の断絶という意味ではなくて、単に同一皇族内での皇位継承の流れが移り変わったという意味です)。桓武天皇は難波宮も廃止します。

桓武天皇は、同じ天皇家でも名門の流派である天武系に引け目を感じていたと言われています。

そのような理由もあって、桓武天皇は天武系の歴代天皇の都として繁栄した平城宮(平城京)を捨てて(すなわち天武系の伝統を全否定して)、天武系の故郷である大和国から脱出して新天地である山背国に宮を遷したのではないかとも考えられています。

ちなみに日本の歴史上、最も自然災害に強く、気候が安定していて、当時としては物流の利便性も比較的良く、また防衛に関しても優れた条件を持つ「最強の都」は奈良の平城京だろうと言われています。

閑話休題。
すなわち桓武天皇は、天武系の流れに強烈なコンプレックスを抱き、伝統的な天武系の世界(天武系の世界観)から外へ飛び出したと言うこともできるのではないだろうかと思います。

義務教育で習う平安遷都のおもな理由は「弓削道鏡に象徴される仏教界の悪影響から遠ざかるため」や「既成の古い権力構造・しがらみを一掃するため」などとされていますが、じつは桓武天皇の心の中には上記のような天皇家における皇位継承の流れに関する理由があったと考えることもできるのかも知れません。

※見出し画像は復元された平城宮大極殿


【おもな参考資料】
○岸俊男『日本古代宮都の研究』岩波書店 1988年
○今泉隆雄『古代宮都の研究』吉川弘文館 1993年
○小澤毅『日本古代宮都構造の研究』青木書店 2003年
○佐藤信『古代史講義 【宮都編】』ちくま新書 2018年
○佐藤信『古代史講義 ― 邪馬台国から平安時代まで ―』ちくま新書 2018年

©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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