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ひとりの食事が苦しい

適応障害様の症状が出てから、退職したいと毎日思っているが、中々言い出せずにいる。私には勇気がない。未来に希望を感じない職場で恐怖と息苦しさをおぼえて働きつづけるのは、毎月給料もらえるとしてもしんどい(そんなに高くないし)。でもこういう気持ちでずっと仕事してる人はたくさんいるんだろうな。

食事が苦しい

さて、ひとりで食事をするようになってから、食べることがそこまで好きでないことに気がついた。むしろここ数ヶ月は、無感情で淡々と胃に食物を放り込む作業と、それをしなければ生命活動が維持できない自分に嫌悪感を抱く。毎食必死に気を逸らしながら食べ物を摂る。食べたものを美味しいと思ってるのかもしれないが、美味しいを自覚することもひとりでは難しい。

食べるものは主にオートミール、ヨーグルト、バナナ、りんご、ナッツ、ブルーベリー、豆乳、野菜を食べられる状態に調理したもの(カボチャにんじん玉ねぎきのこキャベツゴボウ等)、豆腐、納豆、卵、ふりかけ、味噌汁。食材は週2000円分くらい買い出しして賄っている。①添加物が少ないもの、②簡単に食べられる安価なもの のハイブリッドが上記の食材である。オートミールはチンしてすぐ食べられるからとても便利。肉と魚は高いのと調理が面倒くさいからあんまり買わない。

お弁当にはオートミール+おかず一品を持参。もしくは会社で買えるお惣菜を足す日もある。昼も基本黙食。ちなみにこんなご時世でなかったとしても職場に話せる人はいない。

ただ面白いことに、食事は苦しいのだが、自分の気持ちに引き摺られて全然食べなかったり、逆に過食ぎみになることがよくある。過食をするときは、日々のストレスを食べる作業で紛らわそうとしているのだと思う。いつも添加物が~とか考えてるのに、過食時はそれが気にならなくなる。この間はパルムほうじ茶味を一気に5本食べた。食べているときは無感情で、何も思わず、口にものを運ぶ。食べた後は苦しい。そこまで大量には食べないので、胃が苦しくなることは少ないが、心が苦しい。美味しいと思わない嚥下作業の反復で、心は空っぽになる。

食べることが、それが「生存のための一工程」として生の文脈から切り取られた途端、つまりひとりで食事をすることによって食事という行為を自覚するときが、とてもしんどい。

団らんの食事は楽しい

逆に実家にいるときは食事が最高に楽しい。

私とあなたを思ってつくる人がいて、それを食べてくれる人がいる。食べ物からつくり手の気持ちが伝わる。食卓の会話が箸を進める。料理が会話を進める。

料理は食卓の環境とともに私の身体に染みわたる。実家に帰って最初の食事は、久しぶりの感覚に思いがけず涙目になるのだ。こういう環境があるのはとても有難く恵まれている。

食事楽しい!と思うほど、ひとりになりたくなくなるから困る。今の会社を辞めて次やりたいことをやるにも一人暮らしなんだけどさ。

求む、療養。

まとめ

不眠のままに書きたいことをそのまま書いてしまった。

食事が苦しいときには、①実家に逃げ込む、②会話できる環境で食べる(カウンターの居酒屋とかいいかも)、③友だちと電話しながら食べる

ひとまずこれでやり過ごそうと思う。


追記 一息ついたらこの本読み直したい!

磯野真穂,2015,『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』春秋社.

https://www.amazon.co.jp/dp/4393333365/ref=cm_sw_r_awdo_navT_g_MYMNVNMRM4QD7WAD557P

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