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Good luck

恋人ができた。
対話の才能がある人。話者の持っていきたい方向やそのときの感情を察して、気持ちよく誘導できる人。空気の読めない私は、過去所属集団において何をもって「空気を読む」なのかを教えてもらい書き留めてきた人生だったが、恋人はそれをフィーリングで易々とやってのける。素直にうらやましい。
そして恋人は、察せない私までも肯定する。「苦手なことを分かって何とかしようと努力できていることがすごい」のだそうだ。
丁寧すぎるLINEをすること、誰かが何気なく打った文字で勝手に苦しむこと、返事を考えこんで中々返せないこと。察する能力に長けた恋人は私の癖をすぐに理解し、応じて歩んでくれる。そういうことに感謝を述べると、「ただの下心だ」とニコニコ返すところも、どこまでも気遣いの人である。天然ものなのかしら、恐れ入る。

美しい結末

「いつか別れる人」に出会ってしまうと、どんな別れが美しいのかを考える癖がある。たとえば今日も。
夜、さよならする場所まで歩いているとき、雪が降ってきた。さらさら、はらはら、そんな響きが似合うような乾いた雪。
上を向いて街灯に照らされた雪を見る。
「雪、良いね。こっちはこんなに簡単に降ってくるんだね。」
「良いものかな?僕は また降ってきたよってうんざりするよ。」
雪は見えている世界の音を消す。自分がここにいないような気持ちになる。
2人の足音が響く。恋人の髪に雪がとまる。かじかむ指先を温めるように手を繋ぎ直す。なんて美しい時間。
別れを切り出すならこんな美しい夜がいい。喧嘩別れじゃなくて、2人で同時に笑顔でさよならが言いたい。その夜に別れるのがずっと決まっていたかのように装いながら。こんな雪の夜に歩いたねって思い出しながら。

結局、未知が怖いのだ。「続き」に思いを馳せると足元が透明になる。私、ちゃんと歩いていけるの?
想像できるところで「切断」を考える方が、自分の思う美しさを叶えられる。エゴだね。だから妄想するのはいつだって、足元の見える結末。

不幸せの確約

友達との別れはないのに、どうして恋人との別れがあるのだろうか。流動する人間社会において「相手の人生の責任を一部背負う」のは、幸せとおなじくらいの不幸せだ。結婚は、「今日明日の幸せ」と「果てしない未来の不幸せ」を抱えることだ。「不幸せ確定ガチャだけど、それでも引くって決めたんだよね?」にYESが出せる人は本当にすごいかもしくは馬鹿か。

恋人のことがとても好きで、理由なく一緒にいたいと思う。今日も二人でとんでもなくジャンキーなスパゲッティをつくって食べて、洗い物をして、コーヒーを飲みながら動画を見て笑って、幸せがすぎて泣きそうになった。
でも孤独じゃないことを知ってしまうと、独りが本当に怖い。透明な足元のすぐそばには孤独の闇が迫っているように思う。

「きみの明日に干渉していたい、できればそれを数千回繰り返したいんだけど、迷惑じゃないかな?」と言ったら、なんて答えるだろうか。
きっと思考時間0.5秒で、予想した答えよりもずっとあたたかくてユーモアのある言葉をかけてくれるのだろう。


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