小説「歩み」第1章「母」

母から教育虐待を受けている太田りお。りおは母から「失敗作」呼ばわりされ人生に失望するが、持ち前の反骨心で母から逃れるべく一人で食べていける道を模索する。
りおは母から離れることができたのか───

歩み/Miminoz


  私、太田りおの母は所謂「毒親」だった。父からは暴力を受けた覚えはないけれど、暴れ狂う母から私を守ってくれなかったから、やはり「毒親」なのかもしれない。私には兄弟はいない。毒親の両親と私だけの息の詰まる三人暮らしだ。

 母は両親と兄との四人家族で育った。
 母の父、つまり私の祖父は石油をトラックで運ぶ仕事をしていたらしい。それなのに母曰く、石油を積んだトラックを飲酒運転していたとのことで、神経質な母は気が気でなかったそうだ。
 それに、貧乏でありながら祖父は友人などには羽振りが良く、稼いできたお金はほぼ全て奢りに使っており、母は穴の空いた靴を履いて学校に行かざるを得ず、クラスメイトから貧乏だと虐められていたとのことだ。
 もっと詳しく母について語ると、彼女は勉強が好きだった。それに「一番」に拘る人だ。それなのに貧乏で勉強机を与えられず、居間のちゃぶ台しか机がなかった。宿題をしていても、夕飯の時間になれば強制的に片付けさせられ、その後は飲み会が開催されるため満足に勉強できる環境が整っていなかった。兄からは暴力を振るわれていた。
 そんな家庭環境でも母は高校で一番の成績を収め、高卒で銀行員になった。
 そして同じ職場だった私の父と結婚して寿退社をし私を産むことになる。

 このように書くと私の祖父は酷い人のように感じられると思うが、孫の私にはとても優しかったので、私は祖父のことが好きだ。

 話を元に戻すと、母は勉強が好きで学校では一番の成績を収められる程の実力がありながら、家庭環境から高卒で就職しなければならなかったため、子どもには自分と同じ目には遭わせないようにしようと強く誓っていた。
 それ故に、私にとっての「毒親」となるのだが───。

 母は私を産むと、まだ赤ちゃんだった私を右脳教育の教室に連れて行ったり、合計で四十万円するらしい図鑑を買い与えたり、スイミングスクールの体験教室に連れて行ったりした。二歳くらいの私に平仮名やカタカナも教えた。所謂、「教育ママ」だ。
 私が三歳になると、幼児教育で有名な近所の幼稚園に通わせた。

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