まっとうであること。

夜おそく、というか朝まで飲んでいた帰りの電車に、これからディズニーランドに行くであろう4人組の女の子がむかいに座っていた。

彼女たちは大学生くらいだろうか。全員おそろいのピンクのもこもことした上着を着ていて、下はジーパン。靴は黒。「これからディズニーランドに行くんです。」ということを知らせてくれるようなしるしはなにもなかったし、もしかすると同じように朝まで飲んでいた帰りなのかもしれない。でも、彼女たちは「これからディズニーランドにむかう人たちだ」という確信があった。

「これからディズニーランドにむかう人」というのは、どうしてそれがわかってしまうんだろう。遠出ではない荷物の量と、歩きまわっても疲れないような格好、それからなんともいえずしあわせそうで、これから起こる最高に楽しいひとときに胸を高鳴らせてるような、そんな表情だろうか。

一方で僕はぼんやりとした頭で彼女たちを眺めていて、「ああ、彼女たちはすごくまっとうだ。」と思った。それが良いことかそうでないかはおいておいて、酔いがさめてしまうくらいに彼女たちはまっとうだった。きっと彼女たちは人が喜ぶべきときに喜び、悲しむべきときに悲しめる人たちなんだろう。

まっとうであれることはすばらしい。人はものを知れば知るほどまっとうではいられなくなる。そのハリボテをはがした裏側にある秘密を知りたくなってしまうからだ。そうなると世の中にあるほとんどのことは「まっとうに」楽しめなくなってしまう。

彼女たちにも、できるだけ長くまっとうな日々をすごしてほしい。でも、まっとういることのできなくなった生活もそれなりにたのしいということも、いつか知って欲しいと思う。


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