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広至6~zoomを演出に活用した「12人の優しい日本人」~

先日に行われたzoomを活用した「12人の優しい日本人」については、四方山の話を繋げた感想を投稿した。

しかし、新しい表現とした部分を余り具体的に示しておらず、他の方のnoteの投稿でも余り触れられていないようなので、折角なので私なりに読み取ったことを記しておきたい。
それにしても、zoomのシステムの制約の中で、意図した配置で見事な視覚効果を演出したことは、演劇という紀元前からある古いシステムであるからこそ、適応していく余地があることを示した事例として非常に興味深い。

前編~各々の陪審員の態度を配置で暗示~

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前編の配置の意図は、概ね読みやすい。
zoomは確か、会議に参加した順番にウィンドウが並ぶ性質があったはずなので、それを活用したのだろう。

前半1

最初に議論のないまま無罪で評決が一致することを嫌がり、議論を主導する2号が、主役であり孤立する立場を象徴して出演陣の中で1番最後に配置される。
続いて、議論が始まっていく中で、徐々に参加態度が明らかになっていく。
下段に配置された1号は、会議の運営に積極的で、7号は1号に制止されることもしばしばあるくらい自分の説を積極的に開示する。
また、9号は孤立した2号のサポートを行い、最初に有罪に転じる。

前半2

下段以外の配置の意図は、今度は上段側が分かりやすい。
甘栗の皮を剝く3号とマンガを読む11号、野次馬的な発言が目立つ8号と、口下手だからと喋らず自身の説には矛盾も窺える4号。
一貫して議論への参加意欲が低い人間が配置されているのが特徴的だ。
中段は、参加態度としては、5号と12号は、割と中立的で彼らなりに客観性・論理性を持とうとしながら議論の推移を見守る。
6号は、発言の殆んどが他者の話を受けて返す話に過ぎないが、一定量の発言はある。
10号は、自分の判断の説明には苦慮するものの、議論全体への参加には意欲がない訳ではない。
下段と上段の中間程度の参加意欲と捉えると分かりやすい。

前半3

前編最後には、論理的に隙を突くかのように2号が議論を進めていくことで、全体から半分の有罪の支持を取り付けることにまで成功した。
この時点で、各段から有罪(灰色)・無罪(白、10号のみ黄色)の支持者が半数ずつ生まれていることは特徴的だ。
また、関係性の深さから、どうしても切ることのできない組合せも明らかになる。
2号のサポートに回る9号は、積極的な参加意欲を示す下段だけじゃなく、2号の隣であることが必要になる。
同じく10号は、タバコの煙に配慮した2号と物理的な位置を交代し、休憩中にシャツのボタンを繕う気遣いを見せるなど心理的な距離が近いので、接する位置に配置されている。
私自身、全部を1度見ただけで読み取った訳ではないが、こうした議論の流れに即した意図が、視覚的にも何となく伝わってくる所に、演出手腕が光る。

後編~交流と対立、関係性に寄せた配置~

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後編は、配置がガラッと変わる。
前編では異端者だった2号は、最早会議の中心で、もう一方の中心は、無罪の評決を変えなかった10号が務める。
2号と10号の交流と対立が軸となる流れが配置から示唆されている。

後半1

後編開始時の評決で分けた配置を見ると、下段に無罪に投じた陪審員が固まっているのが目立つ。
ならば、今度も各段で分かれているのか、と見るのも良いかもしれないが、恐らく、それはミスリードだ。

後半2

この後の議論の流れから見れば、中心は明らかに2号と10号。
また、外側の1号、6号、7号、8号はそれぞれの理由で後編の議論への参加意欲が低いので、中心と接していない位置に配置されている。
1号は過去の重大事件の陪審員を務めた経験から、6号と7号は議論から疎外感を感じて、8号は一貫して野次馬的な立場を崩さず、それぞれの理由からそれぞれが議論の中心に行こうとしない。
そして、中心の周りで強力に牽引するのは、2号には引き続き9号が付いて、10号には自身が有罪に転じた時でさえ無罪を投じ続ける4号が支える。

後半3

そして、無罪への流れが強まる中、4号の無罪という強い意思に続いて、11号が「弁護士だ」という発言のもと強力に無罪へ誘導する論陣を張る(因みに、私の知っている限りは弁護士は陪審員になれないとする規定は多い。日本の裁判員制度もそう)。
12号は、終盤で被害者の自殺説を提唱し、無罪評決への流れを決定づける。

後半4

ついに、2号は冒頭と同じように孤立し、但し、冒頭とは逆に感情的で自分勝手な事情の投影を独白する。
その2号が、ついに無罪に転じて幕を閉じる。
これは、モチーフとなった「十二人の怒れる男」で、職業は建築士だという8番陪審員のように論理的に議論を進めていた姿と、息子を失った経験から感情的に有罪とし続けたことを独白した3番陪審員の姿の両方を、2号が持っていることを表す。
このzoomでの読み合わせの特徴としては、この後、それぞれがビデオをオフにすることで役者自身のタイミングで劇から退場していけるのも表現として良かった点ではなかろうか。
zoomの会議からの「退出」ではないであろう理由は、全員退場後に「8号」と映っていたのは左上の位置だからだろうし、1号から順番にカーテンコールを行うためにも退出してしまうと再度、全員を呼び戻すのは難しいからだろう。

映像表現の裾野を開拓

今回、出演者のバストアップに限ってそれぞれの顔を等分に見せるというzoomのギャラリービューが効果的だったのは、討論劇という形式に由来するだろう。
同様の形式が取れそうなもの…たとえば、三谷幸喜作品では「笑の大学」や「ラヂオの時間」なら空間が限定されているので、アプローチが可能なのではないだろうか。
他にもzoomの映像作品というのは、私も見ているのだが、これほど鮮やかに機能を活用したものは見たことがない。
また、等分の枠で表現することは映像では難しい所を、zoomだとシステム的にサイズ面で可能になるというあたり、単なる代替表現を超えた側面がある。
今後もzoomに限らず、新たに簡易な映像表現の手法として、web会議システムを始めとした新たなテクノロジーによる開拓が進んでいく可能性が提示されたのだ。

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