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広至3~喧騒と内省の2つの「蜜蜂と遠雷」~

話題になっていた映画「蜜蜂と遠雷」だが、劇場では見逃していたので、これ幸いとばかりに視聴した。
映画で久々にこの物語に触れて、祝祭的なコンクールの喧騒に潜むコンテスタントに宿る熱情を群像劇的に描いた小説と、回想や哲対話を探って己の内なるトラウマを克服していく焦点を絞った筋の映画という違いは面白い。
また、小説オリジナルの曲を、日本の若手の作曲家としてクラシック好きにも支持の厚い藤倉大の新作として持ってきたのは見識が高い。
一方で、予算を優先したのか小説にも特に登場しなかった関係性の薄い曲を大きく使ってしまうあたり、作り手の情熱を問い質してみたくなる印象は拭えない。
この映画を支えるのは何より、栄伝亜夜を演じる松岡茉優の繊細な美しい表情だろう。

「蜜蜂と遠雷」のリアル

脱線するが、「蜜蜂と遠雷」と現実の関係がすぐに分かる点を少々。
浜松を舞台としたと思われる「芳ケ江」の地で行われる国際ピアノコンクールに出場する若きピアニスト達が、コンクールに出場する間の心理的な葛藤と、本選でのオーケストラとのピアノ協奏曲の演奏がメインに置かれる。
何故、浜松が舞台かといえば答えは簡単。
浜松には、駅から徒歩1分の場所に立派なコンサートホールがあり、しかもそこでは最も有名なピアノコンクール「ショパン国際コンクール」の覇者ラファウ・ブレハッチを生んだコンクールを開催しているからだ。
更に小説は、謎の天才少年・風間塵の物議を醸す登場で幕を開けるが、彼のキャラクターの造形には、先述のショパコンで最大の事件となった出場者イーヴォ・ポゴレリチも間違いなく影響しているだろう。
ポゴレリチは、今でもショパンを始めあらゆる曲を、破壊的に強い打鍵と「音に旅をさせる」とまでいったという遅いテンポで、唯一無二の演奏を披露する現代においては稀有な異能の名演奏家だ。
また、風間塵は小説では唯一無二の異能を如何なく発揮したプログラミングを重ねている。
彼はコンクール出場者にして自分が編曲したサン=サーンスやシャンソンであるサティの「あなたが欲しい」を演奏する。
他人から見れば如何にも異端だけど、自らは自然な真っすぐな道を歩む少年と解釈できそうで、インタビューで、自分は楽譜を自然に忠実に演奏しているだけ、と答えるポゴレリチとは益々重なる部分が大きい。
そして、小説では彼が一次予選で演奏したうちの1曲はバラキレフの「イスラメイ」。
この曲はギネスブックに載る難曲といわれる。
ポゴレリチは通常とは異なる遅いテンポを採用して、物凄くはっきりとゆったりとした打鍵の終わりを感じさせない「イスラメイ」をたっぷり10分以上、アンコールで演奏したこともあった。
そして実は、映画「蜜蜂と遠雷」のエンドロールで流れる曲でもある。
更に、ポゴレリチは若い頃の写真を見ると飛び抜けたイケメンで、色々な事情を合わせると私の中ではすっかり、風間塵はポゴレリチがモデルになってしまった(笑)。

ところで、小説・映画に登場する曲の解説としては、このサイトが詳しい(正直、ピティナのシステムが良いのかは分からないが)。
また、私はコンクールで名を挙げた演奏者のコンサートを聴くのは好きだがコンクールそのものは知らないので、選曲事情にはなるほどと頷かされる部分が多く、素晴らしい分析資料だと思う。

映画「蜜蜂と遠雷」の独自表現

映画という制約では、これら多彩な楽曲の分析と表現は収まらないと判断したのだろう。
栄伝亜夜の復活ストーリーに光を当てた構成となっていた。
その分、松岡茉優の表情に繊細なものが映っている。
また、彼女達主要キャラ4人を演じるピアニストの中でも、私からするとクラシック好きに名前をよく知られているのは、栄伝亜夜を演じる河村尚子がキャリア豊富で認知度が高いだろうと思う。
彼女は、ぴあ系のジャパンアーツの期待が集まったピアニストだったように見えた。
ロマン派のシューマン以降や国民楽派のグリーグやチャイコフスキー、そしてその流れの後にあるプロコフィエフなどを情熱をもって表現するのが得意なタイプのピアニストという印象だ。
そうした意味でも、映画のストーリーは彼女に焦点が絞られていると考えて良い。
コンクールを通じた変化としては、まずカデンツァをどう弾くか悩む彼女を"月"のイメージからジャズなども織り交ぜた風間塵との交流で描いて解放に至り、マサルの取り組むプロコ2番をオーケストラパートを弾くことで彼を完璧に対する呪縛から解放し、最後に映画冒頭から雑音に苛まれていた彼女の意識をステージのみに解放することでメインのプロコの協奏曲3番は熱狂と共に幕を閉じる。
後半は、オーケストラが登場して音楽を奏でるシーンが増えることで、前半の内省と静謐と対照しやすい分かりやすい表現となっていた。

オーケストラを重視した問題点

ただ、後半のオーケストラ重視という点では、この作品は致命的なほどの欠陥も感じる。
重要な転換点として、コンクールの最終となる本選前のリハーサルに入った部分のこと。
鹿賀丈史演じる指揮者・小野寺昌幸が「このコンクールには興味がないが、このホールは実に良い」と語る狷介な巨匠として登場する。
しかし、ここで演奏するのは、ピアノとは全く関係ないオーケストラのみの演奏によるブラームスの交響曲第1番。
更にそのすぐ後には、演奏会シーンが挟まるがそこでもピアノが出てこないモーツァルトのレクイエム。
オーケストラのプログラムとしてはガチガチの権威的なだけといっても良い曲目でしかなく、正直、ピアノ・コンクールから離れた演奏会としては私なら「クソ選曲だな…」と内心では思ってしまうようなものだ(笑)。
それなら、豊かな詩情が発揮されていたはずの2次予選(か映画では省略された3次予選)のどちらかの曲目を、各ピアニストが弾いているシーンを少しでも入れて欲しかった。
たとえば、日本人曲の評価が最優秀の松坂桃李演じる高島明石が、2次予選メインのストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」の抜粋を弾いて、恐らく弾きこなせなかった所は是非とも表現して欲しかった。
また、栄伝亜夜はショパンの「雨だれ」がキーになるなら3次予選のバラード第1番とか、ブラームスならマサルの取り上げたパガニーニの主題によるヴァリエーションとか、風間塵のサティでもバルトークでもそうした個性の出るものとか。
もっとピアノにリソースをかけるべきだっただろうに!
そういう感想が禁じ得ない。

映画的には、ある意味では小説では詳細に描かれていないオーケストラとのシーンこそが映画としてオリジナリティをもって表現したいと考えたならその意図は分からなくもない。
でも、それならせめて、風間塵のバルトークの協奏曲3番という感動的なストーリーもある名作は重視して欲しかった。

上記の参考サイトの解説から取れば「まだオーケストラや指揮者には演奏経験が多くない(=コンクールでは一つのリスク)作品のため、(中略)ファイナルでこの作品を選択するというのは、ピアニストの大きなメッセージとなります」とある通り、実際の演奏会でこの曲名があるだけで、私やコンサートホールに平常時は週3回くらいのレベルで通い詰める何人もの知人達なら確実に普通の曲目より3割増しで惹かれる。
作曲時のエピソードとしても、ナチスの台頭と社会の変容からアメリカへ移住し、窮乏生活と病苦の中から命を削るように、最後にピアニストの妻が死後も生計を立てられるようにと先鋭性を少々緩めて親しみを込めた曲として最後の17小節が書ききらずに終えたという強いものがある。
そんな曲を、音響の位置にこだわって変えたことと、栄伝亜夜登場までの繋ぎとして消費してしまい、風間塵の描写で使い切れなかったのは私からすれば消化不良甚だしい。

音楽映画の在り方

こんなことを考えていると、専門の分野を描く映画というのは、どれも難しいのだろうなぁ、と改めて想像する。
しかしそれでも、音楽映画でいえばこんな傑作がある。
たとえば、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、メンデルスゾーン、マーラーなどが流れつつ、オリジナルなのか合唱も入った暑苦しさ全開のロシア民謡風音楽が流れる超名作「オーケストラ!」だ。

こういった作品や原作の喧騒とも離れた、哲学的要素を含むこの映画が、映画としての及第と音楽映画としての物足りなさのアンビバレントな両面でも響いていくと良いなと思う。

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