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「薬を飲んだおかげで腹の痛みが引いた」という主張の愉快さと「馬鹿にされたから怒っている」という主張の愉快さについて

 ここで主張したいことは2つある。しかし2つとも、原因と結果について言っている。わかりやすくするために(1)と(2)を設ける。どれから読んでも、どちらかだけを読んでも、読めるようになっている。

(1) 実体験に基づいて話そう。すべては実体験から広がっていく。論理や客観性はそのまま生まれるわけでなく、実体験を土台にしている。この土台がないと論理や客観性は生まれない。ならば、実体験から話そう。
 4月、腹痛に悩まされていた私は、病院へ行き薬を処方してもらった。整腸剤か何かだろう。医者の話をまじめに聞かなかったので、何を処方されたのかわからない。たぶん体をよくする薬だ。それだけは間違いない。食間に2錠服用するよう言われた。食間とはいつかわからなかったので調べた。食と食の間のことだった。つまり、朝食と昼食の間、昼食と夕食の間、夕食と朝食の間に服用すればいいわけだ。しかし食後に服用するならまだしも、食間となると服用することをつい忘れがちになってしまう。とうとう薬に頼らないまま腹痛から解放されてしまった。悪いことではない。とても幸福なことだ。いつの間にか、腹痛は治っていた。
 このとき、もしも薬を飲んでいたらどうなっていただろう。おそらく、「薬のおかげで腹の痛みが引いた」と考えただろう。でも実際、薬を飲んでいないので、薬のおかげではなく、「なぜかわからないが、腹の痛みが引いた」。このことが示す愉快さを読者は共感してくれるだろうか。もし薬を飲んでいたら「薬のおかげ」だったのが、実はそうではなかった。何が原因で腹の痛みが引いたのか、本当のことはわからないのだ。
 この事実は、すべての物事の理解に影響を及ぼすだろう。さも当然のように語られる事実(例えば「水を飲んだから喉の渇きが潤った」や「スイッチを押したから電気がついた」などとにかくなんでもいい)は、本当にそうかどうかわからないのだ。本当にそうだと言うためには、小学校の理科の授業で習った対照実験のように、もう一つ別の可能世界を用意して比較、検討してみなくてはならない。しかしそんなことはできっこない。例えば、もし「スイッチを押したから電気がついた」という事実を信用しているとしても、そのときスイッチを押さなくても電気がついたかもしれないと言われれば、それを確かめる手段はない。この文章で重要なのは「そのとき」だ。つまり、同時刻の同じ場所、同じ設定において、スイッチを押さない場合と押す場合とを比較し、もし押した場合にだけ電気がついたのだとすれば、「スイッチを押したから電気がついた」と言えそうだ。比較対象は「そのとき」のもう一つの世界でなくてはならない。しかし、それでもなお絶対に確からしいとは言えない。なぜならコインを投げて必ず表が出ると言えないように、可能性としてはやはりスイッチを押さなくても電気がつくかもしれないし、スイッチを押して電気がつかないことだってありえるわけだ。どうすればこのような懐疑に対し正当な反論ができるだろうか。

(2) さて、(1)なんてどうでもいいと思った読者にもう一つ別の話題を提供したい。これもまた原因と結果についての考察である。ここでは実体験というよりも、ごく自然な例から出発したい。
 ごく自然な因果関係を表す文章の例として、「馬鹿にされたから怒っている」を挙げる。これは明らかに「aだからb」という因果関係に沿った表現だ。
 さて、もしこのような発言をしたあなたが、私に「なぜ馬鹿にされたら怒りが生じるのだろう」と問われたとき何と答えるだろうか。答えに窮するかもしれない。仮に「プライドが傷つけられたからだ」と答えても、さらに「なぜプライドが傷つけられると怒りが生じるのだろう」と問われれば、答えるのを投げ出してしまうかもしれない。どこまで答えたとしても、「なぜその(理由)が怒りを生じさせるのだろう」とどこまでも問われ続けるなら、最後は「わからない」と答えてしまうだろう。「わからない」という答えに行きつくとき、ではなぜわからないのに、怒りが生じた理由が「馬鹿にされたから」だとわかっているのだろう。これは矛盾ではないか。

 「馬鹿にされたから怒っている」という主張は、もしかすると間違いなのかもしれない。「aだからb」という因果関係に沿った事実は実は初めから存在しておらず、「aの後にbがある」という前後関係に沿った事実でしかないのかもしれない。だから、「馬鹿にされたから怒っている」のでなく、正確には「馬鹿にされて怒っている」という認識が正しいのかもしれない。それでもなお、読者の中には、後者の文章に因果関係を見出している人もいるだろう。それは当然だ。「馬鹿にされて怒っている」とは「馬鹿にされたから怒っている」を縮めた言い方のように響く。ではどのような解釈をすれば、原因がわかっているのにわからないという矛盾を解消できるだろう。

 今の段階でわかっていることは、因果関係に沿った言い方をするとき、必ずその前提には前後関係に沿った事実が含まれているということだ。つまり、a(馬鹿にされる)→b(怒る)という前後関係がまず先にあり、それが理解の範疇にあるからこそa(馬鹿にされる)からb(怒る)という理解ができる。本来矢印(→)でしかなかった表現の上に原因と結果(から)の意味を付け足しているのだ。

 ではもし前後関係が前提にないまま因果関係に沿った表現をしようとすればどうなるか。このことを考える必要が生じるのだが、ここではそれ以上のことを言わないし、また言えるほどの主張が固まっていないので、次回に余力があれば書きたい。

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