見出し画像

わたしの大島旅 ①

春、仕事を辞めた私は疲れ切っていた。

今まで体験したことのない疲れで、この先1ヶ月半もある有休消化期間でも癒される気がしないほど、寝ても寝ても眠かった。このままではダメだと思うのに、まったくやる気が出ない……。
途方に暮れてベッドに転がりながらスマートフォンを弄っていると、好きな俳優がTwitterで「伊豆大島へ行った」とツイートをしていた。後日その様子を撮影したDVDが発売されるという嬉しい知らせに、ようやくベッドから身を起こす気力が湧いた。
起き上がると見える窓の外ではピンクの桜が咲きはじめていて、その光景に気持ちが明るくなった私は「大島、行ってみたいな」と唐突に思った。

息を吸って、食べて、寝るしかすることがなかったので準備をする時間は十分にあり、何より大島へ行く手配は驚くほど簡単だった。
手元のスマートフォンで「大島 ホテル」と検索して現地のホテルを予約し、「大島 フェリー」と検索して大型フェリーを電話予約する。これだけで、大島へ行ける準備は整ってしまった。

そして数日後、私はひとりで竹芝にある客船ターミナルに立っていた。

私が乗る大型フェリーは夜行便なので、家で夕食を食べてからターミナルへ向かった。浜松町駅には仕事帰りのサラリーマンがたくさんいるのに、その流れに逆行して島へ行こうとリュックを背負っている自分がなんだか可笑しい。
ターミナルの窓口で予約番号を告げてチケットを受け取り、乗船案内に従って大型フェリー「さるびあ丸」に乗り込んだ。

「さるびあ丸」は食堂も備えた大きな船で、消灯前は客席での飲食もできる。二等座席という寝台ではない席を取っていた私は、サイクリング目的なのかスポーツウェアを着た連れ合いの男性達が楽しげに酒を飲み交わしている横で、椅子に沈み込んで帽子を深く被って目を閉じた。酔いはしないかと怯えていた揺れは感じないし、船のエンジン音は意外にも心地よく、気づいたら眠りに落ちていた。
次に目を開けた時、周囲は暗く静かになっていて船はユラユラと波音に合わせて揺れていた。時計を見るともうすぐ到着時刻で、時間調整の為にエンジンを止めて海上にいるらしい。しばらくするとエンジン音が響いて灯りがつき、到着がアナウンスされたので降り口へ向かった。

降り立ったのは岡田港。
波で揺れるタラップを慎重に降りると、眩しい朝日があたりを明るいオレンジ色に照らしている。日の出浜と呼ばれる海岸の上には、丸い太陽が輝いていた。
駐車場まで歩いていくと、逆光で顔がよく見えない人たちが声を上げていた。それを聞くには、三原山行きのバスと元町にある御神火温泉行きのバスがあるらしい。三原山には登りたいが一晩座って寝た身体をほぐしたかった私は、まず御神火温泉へ行くことを決めてバスに乗り込んだ。

大島にはふたつの港がある。
私の降り立った岡田港と、もうひとつの元町港。元町港は大島で一番栄えている元町にある港で、そこから歩いてすぐのところにあるのが御神火温泉だ。岡田港からはバスに乗って10分程で着いた。

御神火温泉に着いて早速、入浴料700円を支払って無色無臭の湯に浸かる。ちょっといい銭湯のような素朴な施設だが、早朝だからか浴場にひとりふたりしかいないのは何とも贅沢。水音だけが響く静寂の中で存分に身体を伸ばした。
指がふやけるほど温泉を堪能したからか、湯から上がった頃には太陽の光は白くなって、はっきりと辺りを照らしていた。いかにも朝な雰囲気にお腹が減って、温泉施設にある食堂で豚丼を頼んだ。座敷の窓際まで運んでそれを食べていると、「朝日が眩しいですよね」とスタッフのお兄さんがロールカーテンを下ろしてくれたので、お礼を伝えた。
生姜の効いた豚丼とささやかな親切にお腹も心も満たされて落ち着き、この後はどうしようかとスマートフォンでバスの時刻表を調べる。あと20分程で三原山山頂口行きのバスが元町から出るらしい。最近は疲れ切って寝てばかりいたから体力の心配はあったが、私は三原山に登ることを決めて荷物をまとめた。

水平線を横目で見ながら元町に向かい、三原山山頂口行きのバスに乗る。
バスは程なく山の中へ入って行き、グネグネと坂道を登っていく。車窓は艶やかな深い緑の葉と紅色が鮮やかな椿の花に彩られていて、絵画でも見ているようだった。その切れ間から海が見えた時、近くの席に座っている家族連れが「だいぶ高いところまで来たね」と話すのが聞こえた。確かに先程まで身近に感じた海は遠くなっていて、山の麓から山頂口まで歩くのは難しそうに感じる道のりだった。
いくつかのバス停を通り過ぎて、ようやくバスは三原山山頂口に到着した。大きな火口のある山頂までは舗装された登山道があり、かなり軽装でも登山を楽しめる。恐らく小学生だろう子どもが歩き出すのを見て勇気をもらい、随分遠くに見える三原山山頂を目指して歩きはじめた。

なんだか周りが静かだった。
登山客の楽しげな話し声や自分のブーツがアスファルトを叩く音が空に響いて聞こえるくらい、環境音が少ない。噴火の際に飛び散ったのだろう黒く大きな岩石の間で風に揺れる、干からびた黄金色の草がそよぐカラカラした音が聞こえた。
日頃、東京でどれほどの音に包まれていたのだろう。アパートの住人が出払った真っ昼間の家で疲れ果てて寝ていても、近くの小学校のチャイムや、道を通る車のエンジンとタイヤの音、年季の入ってきた冷蔵庫の唸る音が、私を包んでいた。それらがなくなったことに、私はとても安心していた。

急になって来た登山道で見上げても当然ながら火口は見えないが、周囲の光景が溶岩が冷えて固まったカルデラによって黒く染まって来たので、火口が近づいていることは感じられた。快晴だったこの日は陽射しが強く、事前に買っておいた二本のスポーツドリンクのうち一本を中腹で飲み干してしまった。私は少し苦しくなって来た呼吸を整えて、リュックが妙に重たく感じる急な坂道にゆっくりと足を進めた。

しばらくする急に坂道が途切れて、平坦な道に出る。目の前を黒い巨大な岩石が阻んでいてよく分からないが、ここが火口らしい。「やっと登り切った!」という達成感を抱いて振り返った時、「ああ、登って来てよかったな」という気持ちにそれがすり替わった。

波音が聞こえるほど側にあった海が遠い。遠過ぎて空との境界線が分からないほど水平線は霞んでいた。ほんの1時間もしないうちに見上げていた山の上にいる。昨日までベッドで無力に丸まっているだけだった私がこの山を登る気力を振り絞ったことへのご褒美のような景色に感じた。

三原山は山頂の火口回りをぐるっと一周する“お鉢巡り”という登山道が有名らしい。案内板を見て「流石にもう山を登りたくはないな」と思ったが、「ここまで来たから火口は見ておきたい」と思い直して火口が見える場所まで登って行った。
途中、黒い岩の間からシューッと白い水蒸気が吹き出すのを何度か見た。この山は本当に生きているんだな、と私は少し怖くなった。

火口は池袋にあるサンシャインシティのビルを逆さまにしたくらいの深さがあるらしく、かなり近づかなければ底まで見下ろすことは難しそうだった。舗装された道の端っこで大きな穴の入り口を見て、高いところが得意ではない私は身震いして引き返した。

来た道をそのまま引き返すことも出来たが、私は以前から伊豆大島に……この三原山に行ってみたい場所にあったので、そちらに向かう舗装されていない道に足を踏み入れた。

②につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?