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わたしの大島旅 ②

ザックザックと、黒い地面を踏みしめる度に独特な音が響く。火山岩の1種であるスコリアという穴がたくさん空いた石粒は、踏まれると小気味いい音を立てる。

周囲には誰もいない。誰もいないどころか道らしき道もない下り坂を、私はザックザックとひたすら前に進んでいった。

等間隔に並ぶ杭がどうやら進路を表しているようだった。最初の辺りでは杭の間にロープが張ってあったのに、歩みを進めるうちにそれさえもなくなってしまった。
地面が黒いことも手伝って異界にでも迷い込んでしまった気分になっていた頃。私はついに目指していた場所を見つけて、杭を追うのをやめて道を大きく逸れた。

日本唯一の砂漠、裏砂漠。
黒いスコリアの石粒に全面を覆われた大地には、草もほとんど生えず、生き物の気配がまったくしない。遮るものがなく暴れている風の音と、自分の歩くザックザックという足音だけが耳に打つ。
黒い砂の上に手をついてみると、見かけによらずほんのりとあたたかい。かなりの距離を歩いて疲れていた私は、真っ黒い砂漠に腰を下ろした。

人肌のようにあたたかで広大な砂漠は、大地に抱きしめられたような安心感を与えてくれた。
コンクリートに囲まれた都会で、狭いビルに大勢の他人と一緒に押し込められて、緊張感や威圧感に溺れそうになりながら、上司や先輩はたまた後輩の顔色まで伺って、自分が優位に立ちたい女達に貶められて、自分が偉いと信じ込む男達に虐げられて、責任と仕事ばかりが増えていく。どこかで誰が見ているかも分からないから、どこにいても人目を気にして生きている。
郊外の緑に囲まれた田舎町で育ったわたしは、そんな逃げ場のない生活に疲れてしまっていた。

けれど、今ここには誰もいない。
それを実感したら気持ちが軽くなり、外面なんかどうでもよくなって黒い砂漠の上に寝転んだ。風はビュービューと吹いていたので、それに紛れて大きなため息を繰り返し吐いた。繰り返すごとに肩の力が抜けて、素のままのわたしになっていくような気がした。

しばらく寝転んでいると、遠くから人の声がして身を起こした。先程まで自分が歩いていた道らしき杭の間を繋ぐように、観光客たちが列をつくって歩いている。
十分に休んだからか元気になったわたしも「そろそろ行こう」と思って腰を上げた。スコリアの石粒が大きいからほとんど汚れなかった洋服を形だけ払って、もう遠くなってしまった観光客たちを追いかけるように道なりへ戻った。

裏砂漠を後にして坂道を下っていくと、低草木が増えて視界に増えて、辺りはあっという間に草原になった。黒い地面が見える場所はもう、くっきりと草木の間を割る道だけだった。

歩き続けていると風の音が弱まって鳥の鳴き声が聞こえるようになってきて、急に目前には木のトンネルが現れる。

背は決して高くないが濃い緑の葉っぱをみっしり茂らせて絡み合うように生えた木々の間を抜け、木漏れ日がキラキラと輝く中をのんびり歩いているうちに、三原山温泉にたどり着いた。

三原山温泉は名前の通り、三原山の中腹にある温泉旅館だ。入浴だけでも楽しめるというので、朝から2度目の温泉に入ることを決めた。ここにたどり着くまで山道を3時間以上は歩き通していたので、入浴する理由は十分にあった。
汚れを落としてさっそく入った露天風呂からは、三原山の山頂と歩いてきた来た山道を一望できる。蒸気を吹き上げる赤黒い山頂から、黒く染まった裏砂漠、そして草原と青々とした樹海。地球の成り立ちを早回しにしたような道のりを思いつつ、しばらくぼんやりとその景色を眺めていた。

温泉を出たらもう昼下がりになっていて、スマートフォンで時刻を見たわたしはお腹が減っていることに気がついた。三原山温泉の近くには昼食をとれる場所がないので、バスに乗って港へ行くことにする。
あと数分で来るバスは岡田港行き。わたしが泊まるホテルは元町にあったが、元町行きは数十分はこない。とにかくお腹が減っていたので、ひとまず岡田港に出ることにする。特に予定は決めていないので、本当に行き当たりばったりだった。

再び降り立った岡田港は、早朝着いた時にはまだ開いていなかった店が賑やかな様子を見せていた。会計を待つ人が列をなす土産物屋に心惹かれつつ、その上にある一峰という食事処に入る。
メニューを開くと、べっこう寿司や明日葉そばが目に飛び込んできた。明日葉という野菜やべっこう醤油に漬け込んだ海鮮の寿司や丼ものが大島の名物なのは知っていたが、ご飯ものやそばの気分ではなかった。食べたいと思ったのはラーメンだったので、大島らしさにはこだわらずに注文する。
しばらくして出てきたラーメンには、どっさりと岩のりが載っていた。スタッフのお姉さんに聞いてみると、大島は「はんばのり」と呼ばれる岩のりの生産でも有名らしい。適度にしょっぱいスープにのりを沈めると磯の香りがふわっと広がる。思わず名産品に出会えたことを喜びつつ、海を眺めながらのりの沈んだスープを最後まで味わった。

遅めの昼食をすませた後、岡田港を散策した。船着き場を歩いていたら釣り人に声をかけられて、少しの間だけ釣竿を預かって海に糸を垂らしたり、朝に明るい太陽が浮かんでいた日の出浜と呼ばれる海岸で波の満ち引きを眺めたりして過ごす。波打ち際でぼんやりしていると、いつの間にかホテルにチェックインする時間が近づいていた。
慌てて元町へ向かうバスに飛び乗ると、窓の外の太陽がかなり傾いているのに気づく。もう夕暮れが近づいていた。

泊まる宿は前年に開業したばかりの新しくて綺麗なホテル。ドミトリーと呼ばれる相部屋に泊まるのは初めてだったので緊張していたが、それぞれの個室はしっかり仕切られて遮光カーテンがついているし、寝息や本のページをめくるわずかな音だけが聞こえる落ち着いた雰囲気の空間だったので、胸を撫で下ろした。
荷物を置いてロビーに出ると、わたしが首から下げるカメラに気づいたカウンターのお兄さんが「今から海岸に行ったら綺麗な夕日が撮れますよ」と教えてくれた。まだ日の入りには早い時刻のはずが、「もうすぐ夕日が沈んでしまうので急いで」と彼が言うので早足に海岸を目指す。

海の上に赤く熟れた眩しい太陽が浮かんでいた。その光を受けた空は橙から紫、そして藍色に移ろうグラデーションに彩られている。
見惚れながら写真を撮っていると、まだ高い位置にあるはずの太陽が少しずつ欠けていく。どうやら霞んだ海の向こうに大きな山があるらしく、山の形に沿って陽が沈んでいるようだった。ホテルでお兄さんの言っていたのは、このことだったのだ。

陽が落ち切って辺りが暗くなるまで、わたしは海を眺めていた。朝日が昇るのを眺めて沈むまで見守るなんてめったにない1日だ。太陽を見送るのがなんだかもったいなく感じて、紫から闇色に染まっていく空を名残惜しく見守った。

辺りが完全に暗くなると肉体的な疲れを感じて眠くなってくる。この1日を終わらせるにはまだ早いと思ったわたしは、夕食をとろうと灯りの少ない元町に繰り出した。
陽が落ちた元町で営業している店は少ない。暗さに怯えて大通りを歩いていると途中に小さなスーパーで見つけて朝ごはんにしようとカスタードとりんごのパンを買う。このまま歩き続けるのは嫌だと思ったわたしは、勇気を出してすぐスーパーから出たすぐ横の真っ暗な路地に入った。
少し先に、赤提灯が見える。近づいていくと寿し光という店名が見えた。どうやら寿司を扱う店らしい。まだべっこう料理を味わっていないことを思い出したわたしは、そう悩まずに店に続く階段を登った。

横開きの扉を開けると、目前を料理がたくさん載ったお盆を持って店員さんが通過した。店は楽しげな声で満ちていて、繁盛している様子だ。
配膳中の店員さんに声をかけるタイミングを見計らっていると、ふいに「お姉さんひとり?」と声をかけられる。声のした方をみるとカウンターにいる2人組のおじさんがこちらを見ていた。わたしが頷くと「板さんここ、空いてるよね?」とカウンターにいた板前さんに声をかけて、2人の隣にある空席を示した。
「ありがとうございます」とわたしが言うと、「いいよ、いいよ」と笑って会話に戻っていった。大島に来てから親切を受けてばかりだ。

メニューを見てすぐに目に入るべっこう寿司を頼もうか迷ったが、目の前のカウンターのガラスケースの中にいる魚たちが美味しそうだったので、海鮮を使ったしま丼を頼む。べっこうのネタも入っているらしく、一石二鳥だった。
飲み物も頼みたいと思ってメニューに目を滑らすと、島焼酎に大島で採れた季節の果物を漬け込んだ変わり種カクテルを見つけたので一緒に頼む。「今はなんの果物ですか?」と聞くと、「キンカンです」と返ってきた。キンカンの酒は飲んだことがないかも知れない。

そう待たされることもなく、しま丼が運ばれてきた。鮮やかに並んだ魚の切り身が美味しそうで、すぐに箸をとって口に運ぶ。
べっこう醤油に漬け込まれた刺身は、恐らく鯛だろう。ねっとりした独特の歯ごたえに少しピリッとした辛味も感じて美味しい。その隣にあった白い身が脂でツヤツヤしている魚はブリのような味がした。しかしブリよりは脂がしつこくなく身に弾力がある感じがしたので首を傾げていると、板前さんが「美味しいですか?」と聞いてくれた。わたしが深く頷いて「この魚が特に。なんて魚ですか?」と聞き返すと「カンパチですよ」と教えてくれる。なるほど、都心ではあまり食べられない高級魚だ。

しま丼を食べ終わった頃、思い出したように飲み物が運ばれてきた。キンカンがゴロゴロ入った焼酎。飲んでみると、ほのかに柑橘らしい香りがする。ベースになっている麦焼酎も飲みやすいもののようで、どんどん飲み進めてしまった。
次第に氷とキンカンばかりになってきたグラスを振っていると、「お姉さん、それ、美味しい?」と声をかけられた。

③に続く

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