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特別な体験と、いつもの日常を行ったり来たり。

父方の祖父の13回忌で、福岡に帰省。
本当の命日は1月末だけど、集まれる時期にということで、4月に。

今から12年前、中学3年生の冬、まさに受験前でした。
すべり止めだったけど、私立高校の試験数日前か、模試の直前だったかなぁ。

雪も降ったりして大変だった記憶がある。

おじいちゃんは小学校の校長先生でした。
バレーの選手もしていたらしい。

そして、認知症だった。

寝たきりとかじゃないんだけど、
コミュニケーションが難しくなって。

お見舞いに行っても、ぼくらがいまいち誰なのか分かってなさそうな感じ。

でも、お父さんの若い頃とぼくがめちゃくちゃ似ていて。
写真見せてもらった時、もうめちゃくちゃ似ていた。

そしたら段々、本物の父は誰か分からないが、ぼくを父だと思うようになって、息子に向ける顔をぼくに見せるようになった。

今までみたいに祖父が孫に向ける優しい顔ではなく、父親が息子に向けるちょっと厳しそうな顔。

別に訂正するのも違うし、「違うよ、きょうすけだよ」と話しても通じるとも思えず、そのまま受け入れて話に相槌を打ってた気がする。

お葬式には、子どもながらにびっくりするほどたくさんの人が参列していて。
とても印象的だったのは、最期に入居していた施設の職員さんたちが、すっごく悲しんで泣いてくれていたこと。若い女性たちだったから、多分そうだと思う。

まだ中学生だし、悲しいけど実感は湧かなくて。でも、他人である誰かが泣いてるってことは、それだけ想われてたのかな、と。

ぼくは今、高齢者介護施設が運営する地域交流スペースで働いている。
めぐりめぐって、資格も何も持ち合わせていないが、福祉と近い距離にいるのだ。

そこで流れる日常の中では、施設入居者の家族が面会に来て、車椅子のおばあちゃんと嬉しそうに再会する光景を横目に見ている。コロナで久しぶりに解禁になったので、それはもう、嬉しそうなのだ。

「もう会えないかと思った」

何度も連呼する。

グループには、特別養護老人ホームもある。
つまり、そこには看護師さんもいて、お看取りもできる。そこで人生の最期を迎える方々がいらっしゃるのだ。

自分が常駐する場所とは、車で数分のところにあるので距離が離れているのだが、たまにお邪魔させてもらって、中をうろちょろ、写真をパシャパシャと撮る。

福祉の「日常」に出会う機会がとても多くなったな。

そう感じるのと同時に、自分がなぜこのアウェーな空間にいるのか、家族が会いたくても会えないのに、よそ者のぼくがここにいさせてもらえる理由や意味ってなんだろうな、と。

ぼくが見ている風景は、介護職員になると「当たり前の日常」なのだろう。

しかし、ぼくはまだ「片足」だけ福祉の世界に入っている状態。
これが「両足」になってしまうと、伝える役目として仲間に入れてもらった意味がなくなってしまうかもしれない。

良い意味で、片足は外に出したままで居続ける。

外の世界の感覚と、福祉の日常を行ったり来たりすることが、福祉を伝えるためにできること。

「伝える」という言葉は少し曖昧で。
福祉の世界において、「伝える」ことの何が課題なのか、何ができていないのかの解像度が低いことも問題だと思う。

「伝える」という言葉を3つに分解すると「記録」「翻訳」「伝達」だと本で学んだ。

この考え方を福祉の世界にも当てはめて、遭遇するいろんな風景を記録すること。

外の世界にも理解できるように翻訳すること。

そして言葉や写真などで伝達し、未来の知らない人にも福祉の世界を擬似体験してもらうこと。

中学3年生の時に体験した、認知症のおじいちゃんとの会話。
泣きながら棺桶の中を覗き込む施設の方々。
あの時に出会った光景や、あの時に感じた何とも言葉にできない感情は、別にそのままでいいし、何も解決しないし、回収する必要もないのだけど。

もし、今のぼくのような伝え手が福祉の世界にいたのならば、当時15歳の少年はもっと早くに自分なりの「死」を解釈できていたかもしれない。

そんな仕事をする人がいるんだと、気づけていたかもしれない。

今のぼくが、自分を主語にして語れる、数少ない福祉体験の一つ。貴重な手がかりで、大事な接点だ。

二足の草鞋、三足の草鞋などいろんな言い方・生き方があるが、ぼくの靴箱には片っぽだけの草鞋が何足もあって、それを取っ替え引っ替え生きている。生きていく。

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