晴読(晴れた日の読書)

長らく記事を書いていなかった。三月はばたばたして、四月はコロナに感染して、という具合だった。春はろくなことがない。オンライン歌会はなんとか続けている。

今日は憲法記念日だった。もう昨日か。とてもいい天気だったので外の公園のベンチで読書をした。公園は難しい本を読むのにいい場所だ。眠くなりそうになったら歩いて眠気を覚ませる。

公園では、長らく中断していた木庭顕『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房、2018年)を読んだ。というか、目を通した。結局帰ってからも読んでいて、やっと最後まで目を通せた。

『憲法9条へのカタバシス』はタイトルの通り(?)、法を歴史的に考える本。けれども後半部には、漱石や鴎外の論もある。文学好きの人はそれだけ読んでもいいかもしれない。(リンク先のカーリルで、お近くの図書館に所蔵されているか分かります。)

一番おもしろかったのは、そもそも憲法改正の手続きが未整備だから議論はそこから始めなければならない、という見解。木庭の見解を実務家がどう評価するかは知らない。

…起草者側が独裁しないようチェックするのは立法府の役割である。しかし政党が案を持ち寄り取引をして改正提案をまとめるのは明らかに憲法の性質に反する。議会内発議の骨格を生かすならば、最高裁判所が任命する起草委員会に原案作成を委ねるべきである。起草は政治的立場を超越した憲法学者等の作業チームがすべきことである。会社法の改正でさえ法制審議会が起草するではないか(ただし、内閣が任命したのではヨリ政治的になるから、憲法である以上最高裁が任命すべきである)。もちろん、ギリシャでそうしたように外国の知的権威を招いて書いて貰うのが理想である。いずれにせよ、手続未整備はたくさん議論すべきであり、議論は改正を促進するなどと怖れていてはならない。千一夜どころか10年くらいかければよい。

木庭顕「日本国憲法9条改正の歴史的意味」『憲法9条へのカタバシス』209ページ
太字は引用者

木庭は古代ローマ法などの専門家らしい。だから、法の基礎である十二表法をギリシャの賢人に書いてもらった、というローマの伝承も引き合いに出している。

憲法が国のありかたを決めると言うなら、国内の利害を超えた「外の知恵」を使って何が悪い、ということだろう。押し付け憲法なんて言いたがる人を叱りつけるようで、とてもおもしろかった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?