桜餅を葉ごと食べること
今年も桜餅を食べないまま五月になった。かれこれ五年近く桜餅を食べていない。
わたしは桜餅を食べるなら、道明寺がいい。餡は甘すぎない方がいい。その程度の好みに合う桜餅が、なぜか生活圏内では手に入らない。以前は遠出して買ったけれど、億劫になってしまった。減量を決意して間食を断ってからは、買う動機もなくなった。
桜餅を食べるとき、一枚の葉ごと食べるのが好きだ。(二枚以上で包まれていたら余分な葉を外す。)ぜんざいと漬物を一緒に食べるのと同じだ。こういうときは、いつもよりちょっと濃く淹れた茶をお供に食べたい。
ところが、桜餅の葉は食べない方がいいらしい。わたしが最近参加した、Twitter上の短歌会の評を読んで知った。その評では「少なくとも明治以降、桜餅の葉は食べるものではなかった?」と結論づけている。その辺の事情を、わたしも憲法を記念してネットサーフィンしてみた。
(タイトル画像:坪内雄蔵(逍遥)『〈一読三歎〉当世書生気質』第八号、晩青堂、明治十八年(1885)。国立国会図書館デジタルコレクションより)
1.江戸時代でも葉は食べない?
浮世絵に桜餅を口にする様子が描かれていないか、探したけれど見つけられない。桜餅を入れた籠ばかりだった。関東の長命寺と関西の道明寺という二大派閥は、江戸時代からあったようだ。
長命寺は二枚の葉で包んだ
元祖の店として有名な山本の長命寺桜もちHPを見ると、桜餅一個あたり葉を三枚使っている。(葉は外して食べろ、とも言っている。)
ググると、興津要『江戸食べもの誌』(河出文庫、2012)が出てきたので、プレビューできるところだけ見た。桜餅一個あたりに使う葉は、もともと二枚だったらしい。文政七年(1824)の一年間で、77万5000枚の葉に38万7500個の桜餅を包んで売った、と滝沢馬琴『兎園小説』に書かれているらしい。
同じく『江戸食べもの誌』によると、川柳句集『誹風柳多留』シリーズにも桜餅が出てくるらしい。引用されていたのは、文政十年(1827)の第100編、天保二年(1831)の第112編、天保三年(1832)の第127編から、それぞれ一句ずつ。食べる様子の句はなかった。
※『江戸食べもの誌』を読んだ人から、桜餅を食べる様子の句も『江戸食べもの誌』に引用されていることを教えていただいた。やはりGoogleブックスのプレビュー範囲だけではダメだ。(2023年5月4日0:53)
天保九年(1838)刊『春色雪の梅』
桜餅の食べ方がわかりそうな作品を、一個だけ見つけた。人情本の『春色雪の梅』だ。『春色雪の梅』は為永春雅の作。春雅は、人情本の『春色梅暦』で有名な為永春水の弟子。
『春色雪の梅』のあらすじを説明するのは面倒くさい。メインになるのは、芸人の蘭蝶が、自分の妻の妹であるお糸と不倫をして、すったもんだする話。新内節の『蘭蝶』を下敷きにしているらしい。
桜餅が出てくるのは、お糸が芳町の芸者屋で働く場面。新人芸者のお糸は、客の如水や、先輩芸者の小仲に座敷で絡まれてしまう。絡まれても黙っているお糸を、イタコみたいだと如水が煽る。小仲がそれに乗って、イタコの水向けみたいに木の葉で水をかけちゃえ、とイジメっぽくなる。
「桜餅が爰にあるから」ではなくて「桜餅の葉が爰にあるから」なのがポイントだろう。想像するに、芸者屋の座敷で桜餅を食べていた。そのとき葉を外して食べた。だから葉だけがそこに残っていた、ということだと思う。
やはり、江戸時代にも桜餅の葉は食べなかったんだろう。
2.葉=桜餅の皮?
「饅頭の皮」といえば、餡を包んでいるあれだ。となると「桜餅の皮」も、やはり餡を包んでいるあれかと思う。けれども、桜餅の葉は外して食べるものだ、という通念があると違うらしい。「桜餅の皮」は葉のことで、葉を外して食べるのを「皮を剥いて食べる」とも言ったようだ。
葉をポイ捨てする人びと
明治三十二年(1899)四月十日の午後、高浜虚子はひとり上野動物園を訪れた。動物園を出た虚子は、上野公園の散りはじめた桜を床几に座って眺めていた。
日が暮れる前でさぞ綺麗だろうなと思った。ところが地面には桜の花びらだけではなく、桜餅を食べた人のポイ捨てした葉がたくさん落ちていたようだ。まこと日本は美しい国だ。
絵入の風刺雑誌『團團珍聞』から、ポイ捨てがありふれた光景だったこともわかる。虚子が上野に行った三年後の、明治三十五年(1902)四月十九日の号に、桜餅の葉にまつわる笑い話がある。
落花を同封した手紙を受け取った人が、風流だと感心する。自分は桜の葉を同封しようと思って、青くて大きい葉を使用人に取りに行かせる。その使用人が返ってくると……
オチとしては大したことはない。ただ、隅田川沿いの、あの山本の長命寺桜もちの店の前に、たくさんの葉がポイ捨てされていたことが想像できる。
「皮を剥く」=「川を向く」の笑い話
また山本の長命寺桜もちのHPを見てみると、ページの一番下にこんな小噺があった。
小沢昭一が店の人に教えたそうだが、結構古くから知られている話のようだ。私が見つけられたのだと、明治二十四年(1891)の文典がいちばん古い。
葉ごと桜餅を食べるのは田舎者だ、という通念がわかる。こういう笑い話について、金田一春彦も触れていた。
なるほど、さすがは国語学者と思ったけれど、京都・大阪を離れると関西圏でも様子が違うようだ。播州に育った柳田国男は、子供の頃に似たような笑い話を聞かされていたらしい。
「皮を剥く」=「川を向く」のダジャレは、桜餅にかぎらないようだ。
3.葉も食べちゃう人
江戸から東京へと名が変わってからも、桜餅は名物として楽しまれていた。明治十年(1877)の第一回内国勧業博覧会にも、山本新六(山本の長命寺桜もちのご先祖)が桜餅を出品している。
明治十八年(1885)刊『当世書生気質』
東京名物の桜餅を葉ごと食べると、田舎者だと笑われてしまうのだった。そんな事情を描写した作品を見つけた。坪内逍遥『当世書生気質』だ。
坪内逍遥が自分の理論を実践に移したという、言わずと知れた有名作品。これも、あらすじを説明するのは面倒くさい。ざっくり言えば、書生の小町田粲爾と、芸妓の田の次とが恋愛する話がメインだ。
桜餅はといえば、桐山勉六という書生のエピソードに出てくる。地方から東京に来た桐山は、食べ方が分からずに葉ごと食べてしまったのだ。ちなみに彼は、西瓜を素手で叩いて割ってしまうような粗野な人物である。
葉も食べちゃう人を詠んだ俳句
桜餅の葉を詠み込んだ句は結構ある。最初に触れたTwitter上の短歌会の評にも、いくつか引用されていた。有名なのは、明治三十七年(1904)に高浜虚子が詠んだ句らしい。
虚子が食べたのは、一個あたり葉が一枚しかないタイプの桜餅だったようだ。
俳句の中には、葉も食べちゃう人を詠むものもある。田舎くさいとか、ちょっと粗野だとか、そういう人物描写の一環なんだろう。明治三十年(1897)に国府犀東が詠んだ句を引用しておく。
いつから多数派になったのか?
さて、桜餅の葉は食べない方がよい、というのが長らくの常識だったらしい。こんなことまで言われている。
桜餅を葉ごと食べることを肯定する記述は、戦後のものしか確認できなかった。とりあえず見つけたものを引用しておく。
果たして、桜餅を葉ごと食べる人はいつから多数派になったのだろうか。もっと知りたい奇特な人は、ご自分で調べてみてください。または、どこかの図書館でレファレンスサービスを利用してみてください。
田舎者と嘲笑されようが、虫と同じと軽蔑されようが、わたしは桜餅を一枚の葉ごと食べる。あらためてそう決めた。
※西暦の入力ミスを修正した(2023年5月4日 0:13)