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この歌はどうやって詠んでいるのですか。


特に朗読をしていると、歌を聴いて下さる方々が「なぜか涙がこぼれた。涙の理由を言葉にはできないけれど…」とおっしゃったり、ご自身の半生の大変だった出来事を振り返り、肯定して受け止め直す体験をされたりします。

そして、「りりんさんの歌は、いったいどうやって詠んでいるのですか」というご質問をよくいただきます。

ほかのひとが短歌を詠んでいるときの頭や心の働き方がわからないので、比較することはできませんし、さらには、私を通って歌が生まれるとき、「歌が詠めない…」と思っている長い時間の果てに、いつの間にか私の前に歌の種が置かれているので、いったい何が起こっているのか自分でもよくわからないのですが…。
(私の前に歌の種が置かれるまでの果てしなさに比べれば、歌の推敲は、光さす場所での楽しく着実な作業でしかありません。)

歌の種が目の前に置かれるまで、私が心がけているのは

はじめてそのものに出会っている気持ちを大切にする

ほんとうに、そのことと出会う


ということです。

何十年も生きていると、たいがいのことが、何度も見たことがあるとか、自分のよく知っていることだと、うっかり思いこんでしまうのですが、本当は、いつでも、何もかもが、初めて出会う私の知らない、計り知れない奇蹟なのです。
目の前に花が一輪咲くことも。

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ふとシャッターを切るのも同じように心が動くときですが、歌を詠もうとすると、さらに、私の手元にあるほんのささやかな既存の言葉を編むしかありません。
大海原に、頼りない一本の糸を垂らすような無謀さで、歌がひっかかるのを待つのです。

それは、私にとっては道のようなものなのかもしれません。


青草をのぼりつめたる天道虫ゆくりなく割れここからが空


私を通って生まれた歌たちは、私とは別の命をもっていて、歌を受け止めて下さる方々や私自身を新たに訪れ、「今この瞬間」に起こっている奇蹟に気づかせてくれるのです。


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