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 中国に「纏足」という風習があったことはよく知られている。人為的に少女の足を奇形化して成長を阻害し、小さな足にするものだ。ポイントは小さな足、そして尖ったつま先である。尖ったつま先により、小さな、そして先の尖った靴にぴったり収まる足になる。成長を阻害したため甲は盛り上がるが、甲は婦人靴の外に出る部分だ。そういう足にするために足の指を折って骨折させたり、ガラスの破片を踏ませて壊死させた部分を削ぎ落としたりと、たいそう残酷な処置をすることが知られている。結婚した後逃げられないようにしたという俗説もあるが、やはりその美意識によるものであったようだ。そしてその美意識は、男性の美意識だ。事実、纏足の女性に対しては結婚の申し込みが殺到したらしい。大人の女性としての全身が足元で消えてなくなるように収斂したその見た目の美しさだけではなく、よちよちと歩くその様が可愛らしかったこともあった。そして美意識は性的フェティシズムにつながり、男性の想像を掻き立てたということだ。それほど大昔の話というだけではなく、家によってはつい最近まで行われていたことのようだ。

 この種のことは中国の女性だけでなく、イギリスの男性にもあったと聞く。細い靴を履くために足の骨を削ったというものだ。何とも恐ろしいような、馬鹿げたことのように聞こえるが、やった本人は大真面目だったことだろう。(真面目でなければできない類のことだ。)流行による多少の差異はあったものの、二十世紀の服装は概ね、広い肩幅、豊かな胸から細いウエストを経て小さな足元に収斂していくシルエットが基本となっていた。そしてより魅力的な装いを完成させるために、小さな(足を小さく見せる)靴はどうしても必要だったのだ。

 ただ、中国のやり方は徹底している。纏足に限らず、拷問の仕方や宦官という文化、所謂「下手物食い」に代表されるような食に対する飽くなき欲望など、その徹底ぶりは他国を圧倒している。それらのやり方は残酷さばかりが目立って、国際社会からは非難の対象となるが、実は、本質をしっかりと見て行われてきたことのようにも捉えられる。目的のためには手段を選ばず、最も効果的な方法を試みるその姿勢は、現在の中国の外交などにも垣間見られる。そのおかげで、今やすっかりアジアのリーダー、世界一の大国と成ろうとしている。食に関しては世界中からの尊敬と賞賛を浴びるものをつくりあげているし、電機、繊維、靴に至るまで世界一の輸出国となった。安価で豊富な労働力がそれを可能にしているが、物事の本質を見て、周りの目や体裁を(あまり)気にせず突進するそのパワーは驚愕の実績を上げている。

 J・D・サリンジャーの小説『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』の冒頭に中国の古い話が登場する。皇帝が新しい馬を探しているとき、近臣の友人に馬の目利きがいることを知り、その名伯楽に自分の馬を探させる。しばらくして彼が一頭の白馬を連れて皇帝のもとを訪れた際に皇帝が「その馬は雄か雌か?」と尋ねると、その目利きは間違えてしまう。怒った皇帝が彼を紹介した近臣にクレーム
をつけるとその近臣は驚いて言う。「彼はもうそのような境地にまで達してしまいましたか・・・。」
 結局その白馬は文句のつけようのない名馬だったという話だが、教訓としては、表層の細部に囚われることなく物事の本質だけを見つめることが大切であるという話だ。一歩踏み込んで言ってみると、どうしても目に付いてしまう表層のディテールを見ているうちは、本質を見ることはできないということだ。この場合、その馬が雄か雌かという問題はどうでもよいことだ。皇帝は名馬を探していたのだし、馬の性別はそれに関係がない。ただ、我々はいつも、何の判断材料にもならないそういった情報を集めたり、その関係ない物事についてあれやこれやと考えたりしてしまう。

 私の仕事のひとつは靴の仕入れで、お客様のために目となり、つくりに関して信頼の置けるメーカーを吟味し、お客様の要望、潜在的な要望も含めてそれを形にすることである。お客様が望む靴の本質は何であろうか? それをいつも考えている。その際にいつも注意するのは、表層のディテールに惑わされないことである。良い靴とは、「買って良かった!」と思える靴である。それもある程度長い期間に渡ってそう思える靴だ。そして、最高の靴はその人の人生のパートナーとなり、ボロボロになっても思い出として大切に取って置きたくなるような靴だと思う。そしてその基準は、当然、履く人によって十人十色である。そして、人は歳月とともに好みや価値観が変化して行く。したがって、そういった靴になってもらうためにはどうしたらよいかという答えはない。ただ、普遍的な要素だけを抽出していくと、一番のポイントはその靴をつくる人だと思っている。その人が本当にその靴を履く人のことを考え、その靴を買って良かった、と思ってもらうことを志していれば、すべての要素は自ずと満たされていく。例えば素材に関しては、永く履くことを前提とした頑丈なものや、経年変化でどんどん美しくなってゆくものを選び、あるいはまた、希少な素材を探して来て「他にはない」というポイントでユーザーの所有満足を醸造しようとする。デザインは様々な好みがあるが、オーソドックスなものにしろ、愉しいデザインにしろ、どれも普遍的な魅力を持ちうる、クラシカルな基本に根ざしたものになる。そして当然、靴の製法は修理をして永く履くことを可能にする製法を採用する。だから私はなるべく靴を見ないで、その靴をつくる人を見るようにしている。実際に手を動かして靴をつくる職人でなくとも、オーナー、経営者を見るようにしている。それこそが良い靴を見極める本質だと信じて。

 皆さんも自分の靴選びをするときにそうしてみてはいかがだろうか? 靴を(あまり)見ずに、応対する販売員なり、その店の姿勢を見るようにしてみてはいかがだろうか? センスや価値観がある程度共有でき、誠実で信用できる、上辺だけでなく本当に親身になって靴選びを手伝ってくれる販売員なら、信じて良いと思う。きっと本質的に良い買い物ができるはずだ。そして信用できる店なり販売員が見つかれば、それはそこで購入する靴と共に、一生の宝になるのではないだろうか?

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