ジャマイカ
ジャマイカの生んだ偉大なるポピュラーミュージックは、何といってもレゲエとスカだ。イギリス支配によって英語が公用語であったことがこの二つの音楽ジャンルを世界的メジャーにした要因であったことは確かではあるが、もちろんそれだけではない。国民の九割以上がアフリカ系人種という南米では珍しい民族性と、アメリカのジャズやリズム&ブルースが出会うことによってそれらは生まれた。最初にスカが生まれた。単調なバックビート(二拍目と四拍目を強調したリズム)にのせて自由奔放なトロンボーンやピアノが絡み、ベースとドラム、そしてリズムギターはあくまで単調なリズムを刻むその音楽は、当初もっぱらレコーディングを基本とした音楽であったらしい。この点が様々な音楽の中でも極めて珍しい性格を持つ音楽となった要因である。感覚的な表現で申し訳ないが、スカは閉じた音楽である。北方音楽と南方音楽の例でいうと完全に北方の性格を持つ。北方音楽は寒い地域で発展した音楽で、内省的で神経質で身体が縮こまり背筋がピンと伸びるような音楽、南方音楽は暑い地域のそれで、開放的、伸びやかでリラックス効果のある、そして出来ればソファーに身を横たえて聞きたくなるような音楽のことをいう。いずれにしろ、スカはもともとジャマイカの炎天下のもと鳴らされた音楽ではなかったのだ。
これに対しレゲエはというと、そう、全く逆の音楽である。「スカを遅くしたのがレゲエで、レゲエを早くしたのがスカでしょ?」というくらいに考えている人も多いと思うが、これら二つの音楽は成り立ちからして真逆である。レゲエはもともと野外演奏を前提とした音楽であった。リズムとしては、ギターが二拍目と四拍目を強調するのはスカと同じだが、ドラムは三拍目にアクセントを置く。そしてベースは複雑なリズムでうねるようなラインを弾くのが特徴だ。
私自身はレコーディング音楽の愛好家である。多くの音楽ファンがそうであるが、普段はレコーディングされた音楽を聴く。そして、感動したそのアーティスト(演奏者)がライブコンサートを開くたびにそれを聴きにいった。しかしどのコンサートに行っても、そのCDなりレコードを聴いたときの感動ほどの満足は得られなかった。それは私にとって、コンプレックスでもあり、どうしても解けない謎でもあった。音楽が元々ライブ演奏で楽しまれたことは周知の歴史だし、人々は必死になってチケットを入手し嬉々としてコンサートに足を運ぶ。確かにそこには迫力のようなものは存在する。アーティストと同じ空間を共有していることも実感できる。音が空気を震わせ、その振動が自分の心臓を揺らす感覚もある。しかしなかなか心は震えない。
初めは自分の性格が内向的だから、とか、自意識過剰で周りの目を気にしながら聴いているからコンサートをうまく楽しめないのだと思っていた。周りの近しい人たちにもコンサートのどういうところが楽しいのか、いろいろと聞いてみたりもしたが、それ以上の理由は見つけられなかった。ところが、三十歳を越え、四十歳になろうとして、そんなことが理由ではないと確信した。ライブ会場で自由に踊ってみたり、大きな声を上げてみたりすることにそれほどの恥ずかしさも覚えなくなり実行してみたが、それでも結果は何ら変わりなかった。
ライブミュージックは実話、そしてレコーディングミュージックは物語なのである。
これに思い至ったのは、大岡昇平氏の『靴の話』という短編小説を読んだのがきっかけだった。内容は、戦死した戦友の靴を盗んで履いてしまう、というそれだけの話だ。そこにはドラマチックな展開も、涙を誘う郷愁も、そして何の教訓もない。きっとそれこそが戦争の真実なのだろう。それを読んだ後、私はライブミュージックを聴いた後のような感覚にとらわれたのだ。私は物語を期待して『靴の話』を読んだ。するとそこで語られたのは物語ではなく実話だったというわけである。主人公はただそこにあった靴を盗んで履いた。生きるために必要な靴だったからだ。それが戦友のものであることは意識していたが、戦友の生前の意志や生きたかった想い、彼の生を引き継ぐとか、自分が彼の分まで生きるとか、そういった意識はない。恐らく潜在的な意識もなかったはずだ。そこに描かれているのは、生き抜くための本能と戦友の遺品を盗んでしまったことの事後葛藤だ。もちろんその小説はフィクションであろうし、欧米の逸話に基づいたものであったようだ。ただし、語り口は実話としてのそれであり、戦争という何とも表現のしようのない、無力感、絶望、やり場のない怒りといった感情を伴う悲劇を表現する一つの方法だったのだろう。今思えば、スピルバーグの『セイビング・プライベート・ライアン』という映画もそのような語り口であった。
私は物語を愛する。この奇妙で歪んだ現実、そして人間というものを整理して置き換え、そこから学び取れる教訓を手に取れる形にして差し出してくれる、心を震わせてくれるドラマを愛する。それがゆえに、ライブミュージックに対して過大な期待を抱き、相対してしまっていたことに気付いた。ライブミュージックは実話のようなものであり、決して構えて聴いてしまってはいけない。実話は実談として語られ、それは対話に発展すべきものだ。ライブ演奏のDVDを観るようにして聴いては駄目なのだ。
その昔、レコーディングミュージックが存在しなかった時代の音楽はもっとシンプルだったに違いない。人々、それもごく限られた豊かな人々にとって、音楽はライブでしかなかった。そこでは皆、何の先入観もなく、音楽を楽しんだことだろう。いま私を取り巻く音楽環境はその時代とは比べ物にならないほど恵まれているが、現代には現代の息苦しさみたいなものがあるのも確かだ。奇妙なことだが、それが我々人間のつくりあげてきた世界だ。
いまの日本では靴が生きるためのライフラインであるという意識は遠くのほうに押しやられてしまっている。また、戦争中に我々の先達が、胃の痛くなるような思いをして盗んだ革靴の話もごく最近の話だ。もっと以前においては良心の呵責もなく靴を盗んでいたことだろう。ちなみに二十世紀初頭のイギリスやアメリカでは、紳士靴は立派な質草だったそうだ。質屋に入れられた靴は高い確率で(利子の返済とともに)回収されたという。もちろん今とは比べ物にならないくらい高価なものだったのだろうが、とても興味深い話だ。
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