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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―51―

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        第 四 章
      王の帰還(11)  大禍時
 
 イワンというあだ名で呼ばれているロシア人捕虜は、司令棟地下物置の一角に拘束されていました。
 地下には冷房がなく、ただ廊下に通じる換気扇が、様々な悪臭が入り混じった熱気を密やかに攪拌しているだけです。それはそれは吐き気がするほどでした。ここには、使わない家具類がほこりよけの白布に覆われて、乱雑に詰め込まれています。まるでそれは年月を経た埃が考古学の発掘現場のように層をなしていると、たとえるのは大袈裟でしょうか。いや、その堆積の下には、何か貴重なものが埋まっていると期待するこという共通点はあながち間違っていないでしょう。
 
 彼は頑丈な椅子にくくりつけられていて、両足はそれぞれ椅子の脚に固定されています。両手は後ろ手に束縛されていて、その先は鉄鎖が壁にしつらえた頑丈な鉄環に繋がっています。座っている椅子の脚も反対側の壁に鎖で繋がっていて、これでは四肢を使うどころか椅子を動かすこともできません。また、頭には黒い布袋をかぶせられて視覚を奪われ、耳にあたる部分にヘッドホンがあり聴覚を奪われています。桃子がナイフで地面に縫い付けた左足の甲は包帯が巻かれ、丁寧に治療されているようでした。
 
 この厳重すぎる拘束方法は、彼がスペツナズ出身者であること、また、ガルシアたちが対敵する麻薬カルテル構成員や警官などを生け捕りにした経験を踏まえたものでしょう。多分、縄抜け的な方法で逃げられた失敗や、捕虜が拷問前に自殺した経験の反省から、このようになったにちがいありません。
 
 ところが、彼はよどんだ熱気の微妙な乱れと人が歩くかすかな震動から、これから自分に起きることを予想しようと、まわりの様子を探ろうと、五感を研ぎ澄ましていることが、雑な入れ墨をした上腕が急に緊張したことから察せられました。
 桃子は、なるべく汚れないように白布を引き剥がし、椅子一脚とコーヒーテーブルを引き出すと、捕虜の前に据えました。

「エリカ、目隠しとヘッドホンをとってやって。手もほどいて」
 エリカは目隠しとヘッドホンを外すと、どこからか引き出したワンハンドオープンナイフのブレードを勢いよくはじき出して、捕虜の親指を拘束しているプラスチック製結束バンドを切り放ちますが、ナイフはしまいません。そのまま捕虜の左背後にとどまり、身構えています。
 捕虜が血行を取り戻すために両手首をマッサージし、聴覚と視覚が戻り、捉えた本人に焦点を合わせるまで、桃子は気長に待ちました。
 
「足のケガは大丈夫? 手荒なことはされなかった?」
 彼の足を大地にナイフで縫い付けた本人が、やさしく尋ねました。もちろんオフィーリアから習っていたロシア語です。
 
「いつになったら、解放してくれるんだ?」
 捕虜は、数日ぶりに嗄れた声を出しました。
「エリカ、足もほどいて」
 彼に答えるかわりに、エリカに命じましたが、エリカはこわばった口調で否みます。さいぜんに桃子と衝突したことばかりが原因ではありません。
「危険すぎます。こいつは何をするかわかりません」

 桃子は返事を聞くとにやりと笑い、持っていたミネラルウォーターのペットボトルを彼に放り投げました。捕虜が片手を上げてキャッチしようすると、ボトルは空中で両断されて冷水が飛び散りました。
 鉄鞭てつむち/てつべんで横薙ぎにしたのです。一方、エリカはこの突然の出来事に本能的に反応し、ナイフを捕虜の頸動脈に当てていました。

「エリカ、そんな乱暴なことはしないの。彼はなにもしないわよ」と、乱暴をした本人の桃子が静かにたしなめ、鉄鞭を手元に引き戻し一歩近づきます。
「捕虜にしたときに、わたしは言ったわよね。お前はわたしのものだと」
 捕虜は大きく頷きます。そうして、顔から流れ落ちる冷水を貪るようになめました。
「だからせっかく手に入れた自分のものをこわすようなことはしない。安心していいわ。十分な食事と飲み物はもらってたの? ほしかったらウォッカも探したらあると思う。いる?」
 捕虜は、いらない、とこうべを強くふります。
 本当は冷えた水もウォッカも欲しかったのでしょうが、いま見せつけられたしなやかな鉄鞭による狼藉と、優しい口調の落差に警戒したからでしょう。

「あなたは安心していい。もう危害を加えることはしないから、暴れないでね」
 彼女はこう前おきすると、捕虜の両足の縛めをほどきました。彼は水で濡れた顔を拭うことも忘れて、美少女桃子をただみつめています。
「訊くのは二度目になるけど、本当の名前、生年月日、国籍、出身地、経歴、家族歴を喋って」
 彼女は彼を捕虜にした際、すでに同じ内容を尋問しています。日時をおいて何度も聞くのは、細部の違いや矛盾がないか確かめていうのがテクニックの第一番目だと、さきほど夏期即席尋問テクニック講座でガルシアから授けられていました。ですが今は幾度も同じ質問を繰り返す時間的余裕はとてもありません。

 桃子は返事をまたず、首にかけたタオルで椅子とコーヒーテーブルをぬぐい、ICレコーダーと小さなメモ帳、筆記用具を卓上に放り出しました。そのしぐさはいかにも、十六歳女子高校生が、嫌な授業を受ける前にするしぐさと同じでした。
 ……
 彼の本名は、ヒョードル・アンドロヴィッチ・ザハロフ、2005年8月7日生まれの満29歳、ロシア国籍、東シベリアのクラスノヤルスク地方の寒村トゥーラ(注1)出身、先祖がスターリン時代に流刑されたのち定住、自身は元ロシア内務省国内軍軍曹……。

「あなたをリクルートしたのは? 誰が、いつ、どこで?」
「民間セキュリティ・コンサルタントのウィリアム・スミス、契約金五千ドル、月額報酬千二百ドル、生命保険負担という契約……」
 彼が述べるには、退役後サンクトペテルブルグで職探していて、三週間前に退役軍人などがよく集まるバーでウィリアム・スミスから声をかけられた、契約金や報酬が破格だったので飛びついた、翌日契約金と航空券を渡されベラルーシへ移動した、そこには同じようなロシア人十名余がいて簡単な軍事訓練を受けた。あとから旧ソ連構成国出身の人間が集まってきた、そこで初めて雇用主で指揮官という人物が現れた、ということでした。
 
「そいつの名前と特徴は?」
「ベンジャミンとだけ名乗った。もちろん偽名だろう。年齢四十ぐらいの白人に見えたが、南米系の血が混じっているような肌色だった。いかにも元軍人、それも練達の下士官のイメージを想像すればわかりやすい。そういえば、左の上腕に三本の矢に蛇が絡まっている図と、”いとしのジュリエット”と彫った刺青があった」彼はベラベラと喋ります。
 桃子がさらに細部を問い詰めようとする前に、自分から先回りして補足説明をするありさまです。

 ベンジャミンは、桃子一行襲撃の指揮官だった、彼から傭兵一人ずつに日本への航空券を渡され集合日時、場所を指定された、渡された航空券はもちろん航空会社、航路も出発空港も到着空港まちまちだった、と彼は息つく暇もなく喋り、ここで初めて何かを思い出す素振りを見せました。

 桃子は、彼の表情の細かな動きを見落とさず、話の真偽を推し量ろうとしたが、本当のところはよく分かりませんでした。
「話がなげー! Ты,тонкокожий идиот! Вылижи свою собственную задницу!」(注2)と喚いて、中指を立てるサインを突き出しました。

 このハンドサインに捕虜も愕き、口を開いたままです。それはそうでしょう。つい先ほどまで端整で上品に喋っていた美少女が、急に耳にするのも憚るロシア語で罵倒するのですから……。
 彼はのちのち、ロバに後ろ脚で後頭部を蹴り上げられたみたいで、頭の中が真っ白になったと繰り返し語ったということです。

「まどろっこしい! もっと重要なことはないの! Бесполезный Усноро!」(注3)
「そういえば、ロシア人の傭兵仲間が、ベンジャミンの英語は生粋のアメリカ英語だと言ってたな。……到着の夜、俺たちは小型バスに乗せられて山中の建物に運ばれた。そこで新しい服や武器、ヘルメットを与えられて、服も持ち物一切を捨てさせられ、パスポートは取り上げられた。実戦的な襲撃訓練があった。それから、中東系の傭兵十人が加わったが、にわか仕立てのチームなのでうまく連携できなかった。最終的に作戦と攻撃目標を教えられたのは、襲撃の二日前のことだ」

「ウィリアム・スミスも姓なしベンジャミンも現場の使い捨てでしょう? 本当の雇い主結びつく情報はないの?」
 再度、彼は考え込みました。
「たぶん、”ヴィヴァルディ”、民間軍事会社ヴィヴァルディ……」
「なに? それ」
「民間軍事会社さ。傭兵を集め世界の紛争地帯へ派遣し、正規軍の代わりに戦闘や正規軍が国際条約に縛られてできない汚れ仕事を請け負う、傭兵派遣業者だ。昔、アメリカにブラック・ウォーター(注3)のがあったろう。あれの最新ロシア版だ。そこが俺たちを雇ったにちがいない」
「どうして分かるの?」

「ロシア人傭兵たちと話し合った結論だ。俺たちは保険をかけるわけだ。俺たち傭兵は、スミスの野郎もベンジャミンも信じていなかった。作戦が成功しても現地でほっぽり出され、金は鐚一文びたいちもん支払われないことが、この業界では散々あるからな。だから傭兵同士で情報交換をする。傭兵市場動向やリクルーターの名前、民間軍事会社の動向など、知る限りの事実を互いに付き合わせるのさ。裏切りに備えるわけだ」
 ヒョードルは、初めて汗をぬぐいました。

「それで、仲間の一人にベンジャミンを知ってた奴がいたんだ。又聞きの情報だがな……、腕の刺青いれずみで身バレした。奴は、”ヴィヴァルディ”関連だとウワサがあった。下請けの下請けのさらにまた下請けのフリーで働いていた……。それに、保証金をポンと現金で支払ったり、サンクトペテルブルグの裏町で活動したり、傭兵一人一人に航空チケットを渡したり……ボディアーマーや暗視装置も最新式だった。要するに、資金力が豊富だということだ。そんなことができる民間軍事会社は”ヴィヴァルディ”しかないと、仲間内で一致したのさ」

「”ヴィヴァルディ”をもっと詳しく」
「さきほど言ったろう。ブラックウォーターが洗練されて、資金力豊富になったロシア版だ。非上場会社で決算などは公表されていない。本社はカナダのオタワに置いてる。書類上だかのことだが……。経営者はリュドミラ・イオノバァ、二十八歳、元ファッションモデル、セントペテルブルグ出身らしい。世界の富豪五百人にも名前が挙がってる有名人だ」

 桃子は、捕虜が喋った内容を咀嚼そしゃくしたが、すんなりと胃まで落ちませんでした。「エリカ。リュドミラを調べて」
 彼女をさえぎって、ヒョードルが答えを求めました。
「俺が降伏して情報をあらいざらい喋れば、三倍の金で雇うと言ったが、間違いない……」
 言い終えないうちに、鉄鞭が伸び彼の右手首に絡まっていました。
「エリカ! 殺してはダメ! まだ聞くことがある!」
 ヒョードルが慌ててエリカに目をやると、跫音あしおともなく近寄っていて、ナイフを逆手に持ち替え彼の喉笛を狙っていました。エリカに向き直ろうと上半身を動かしますが、手首に絡みついた鉄鞭を引かれて、動きを一瞬止められました。急に汗が引き、顔色も蒼白くなっていました。

「桃子は嘘は言わないわよ。それどころか、ヒョードルをわたしの傭兵部隊のトップに据えることに決めたの。今言った”ヴィヴァルディ”のような会社が一つ欲しくなったわけ。あのメキシコ人もこのエリカたちもお爺さんが雇ったんだから、わたしの勝手にならない。わたしの自由になる人間が欲しいの。民間軍事会社って便利そうだから……。桃子に絶対の忠誠を誓いなさい」こう言って彼女は、鉄鞭をゆるめて笑いました。

「しかし……。実績を上げなくちゃだめよ。良質な傭兵を集め、訓練し、会社を上手に運営すること。まあ会社の運営は、うちに専門家がそろってるから心配ないけど……。これができなければ、ヒョードルは戦地の泥を這いずるまわる一介の傭兵よ。それとテスト期間は二年間。こういう条件。とってもいいでしょう。だから、もっと役立つことを喋らなくちゃダメ」
 よく映画などで知られた『良い警官と悪い警官』の尋問テクニックです。もちろん桃子が良い警官役でエリカが悪い……です。
 
 彼とエリカが口々に、何かを訴えようと大声を上げましたが、それより大音量の館内放送と警報音にさえぎられました。

「戦闘態勢1 戦闘態勢! 敵襲来! 持ち場につけ!非戦闘員は地下会議室から出るな! 繰り返す、敵来襲……」
 ガルシアの予測が大幅に外れてしまいました。深夜から未明の襲撃でなく黄昏時の襲撃です。大禍時おおまがどきになってしまいました。
 (つづく)

(注1) 寒村トゥーラ

トゥーラの位置
トゥーラ市街地の上空写真

(注2)、(注3) DeepLで翻訳しました
Ебать-колотить!
 クソッタレ!
Ты, тонкокожий идиот! Вылижи свою собственную задницу!
 この薄らバカが! 自分のケツでも舐めてろ!
Бесполезный Усноро!
 薄のろ!

(注4) ブラックウォーター