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結局、物語ることしかできない。

 以前、ある本を読んで表題の言葉が刺さった。
 ショーニン・マグワイア著『不思議の国の少女たち』。がっつりファンタジー。
 私はファンタジーが好きだ。これはもう習性のようなものだろう。
 ハリー・ポッターなんて、何回も読んだ。何回も泣いた。ちなみに原作がものすごく大好きだから、映画は反対派。映画は反対って堂々と言うために全作観ました。結論、反対。秘密の部屋まではいいと思うんだけど、その後は本当に嫌だった。だって、ぜんぜん、ちがう。
 まあその話は置いといて。強い愛着を持ってそれを芯にできるほど好きなものが、ファンタジーにある。
 なんて言いながら、王道である『指輪物語』は読んでいなかったりとか、そんなこともある。

 冒頭の話に戻そう。
 何が刺さったって、『ものがたる』という言葉の使い方。だれにだってそれぞれの物語があって、それを語るしかないのだという、間口の広げ方。書くことが物語るのではなく、それはただ記録に過ぎないのだということ。
 うまく言えないけれど、この言葉で、私の『物語』の幅はぐっと広がったのだ。
 
 小説もそうだけれど、とにかく文章を書くことをやめようと思った時期があった。
 何があったわけでもないけれど、形にできないならやめた方がいいんじゃないかという、そんなぼんやりした考えだったと記憶している。
 けれど結局やめられなかった。私にはいつでもなにか出来事が起きて(それは皆そうだと思うけど)、私はそれを語らずにはいられなかった。そして人に話す前に、自分の情緒に影響を及ぼすなにかがあればそれを文章にして消化する、そういうやり方がすっかり身に付いてしまっていて、それなしではどうも生きづらかった。
 小説もそう。アイディアも登場人物も勝手に降り立ってくる。私はそれを一度書き出してみないと気持ちが落ち着かなかったし、彼らはいつまでも勝手に動き回って私の頭を占拠した。
 
 それは全部『物語る』行為だった。私は結局、物語ることをやめられず、ひいては文章を書くことをやめられないのだった。

 それを仕事にするわけでも、それで食べていくわけでもないのに。
 そう囁く声も私の中にはある。けれど同じ私が囁く。それって重要なことかな。
 やめられない、という事実が重要なのであって、結果は今重要ではない。
 もちろん、そのうち文章で何かできればなあとは思う。ぼんやりしすぎていて、本気なのか!と怒る人もいるかもしれないけれど。
 自分のなにかを形として残したい。それは承認欲求にも似ているけれど、少し違う感覚で。
 今はぼんやりとしたその感覚をとりあえず抱きしめて、今は自分にできることをする。
 それはこうしてnoteを毎日更新することでもあるだろうし、コンテストに応募したりすることでもあるのだろう。
 
 そうやって、私はとりあえず日々を過ごしてみる。
 どんな過ごし方であっても、物語ることはやめられないから。

 
 

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