フィルムカメラ風の写真を撮りたくて、深淵を覗き込みたくて、お酒を飲んでネジを外しまくりたい。
私はばらばらだ。人類皆そうだろうけれど、ひとつの『型』にはまれない。
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最近、フィルムカメラ風の写真が撮れるというアプリをiPhoneに入れた。自他共に認めることだが写真のセンスはないし、カメラをいじっていたわけでもない。ただ、昔から家にカメラはあって父はよく写真を撮っていたからその記憶はある。それだけ。
心の闇を抽出したような作品に惹かれるし、深淵を覗き込んで深淵に見つめ返されるような瞬間に感動を覚える。小説もそうだし、歴史上の人物の逸話でもそうだし、現実でもそう。
お酒を飲み散らかすことが好きだ。ばかみたいにお酒を飲んで騒いで、本当にばかをする。品もなにもあったもんじゃない。ネジを全部緩めて外して、ただその時に楽しいことをする。
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その場その場で別の私がいる。ばらばらの私たち。私の欠片。
そんなのみんなやん!と思うかもしれない。けれど自分でそうなんだと思うからどうしようもない。
そんなばらばらの欠片を全部、ひっくるめて理解できる人なんていないと思っている。昔は理解してほしくてもがいたことがあったけれど、そこまでを他人に期待するのは筋違いだと、今は思っている。
だから私はだれにも、理解を求めたくはない。結婚相手に求めるものは?と問われて「理解」と答えることはない。
私自身は、相手を理解したいと思う。それは私の独占欲なのかもしれない。と、同時に、相手が私と同じように理解したいという感情を持ってくれることがあるならば、私はその感情を足蹴にしているのかもしれないと思う。
大事なところだけ理解してくれる人と、一緒にいれればいいと思う。
けれどその大事なところって、私のどこだろう?どの私だろう?
「私許容範囲広いんよ」とこないだ自慢気に言ってしまった。「普段の態度からそうやとは思わへんかった。意外」と言われた。それもまた私の欠片。
「話きくのうまい。心開かせるのうまい」と言われた。それもまた私の欠片。
どれも本当の私だし、本当の私なんてどこにもいない。
なんてことをつらつら話しているけれど、結局「欠片の集まり」としか自分を認識できない時点で、同一性が不確かってことなんだろう。
そして、そんな自分であることをだれかに知ってほしいんだろう。そうすれば、だれかと同じ世界に存在していると思える。そのときそのときで違う世界の違うだれかの隣にいるんではなく、ちゃんと同じ世界を共有しているのだと実感できる。
結局私は、ひとりぼっちにはなりたくないのだ。
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