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【番外編】広州の基礎を築いた南越王「趙佗」ゆかりの地を訪ねて 《広東省河源市龍川県佗城》

以前、2回にわたり、広州の始まりの国、南越国について紹介してきました。

今回は、少し広州を外れて、広東省河源市龍川県にある南越国の祖「趙佗」ゆかりの場所を紹介したいと思います。

なお、内容は、個人的な意見や感想を交えて、個人が調べた範囲で掲載しておりますので、その点ご了承下さい。

1.県知事から国王になった趙佗

前回も紹介したように、広州の歴史は、前214年に秦の始皇帝が中国華南地方(嶺南地区)の攻略を命じたことで大きく動き始めます。そして、この時、副将に命じられたのが始皇帝お気に入りの「趙佗」だったことが、嶺南地区に大きな変化をもたらします。

副将だった趙佗は、前214年に嶺南の地を平定した後、龍川県の県令(県知事)を任されました。この時、趙佗はまだ26歳(注1)。そして、前208年、病に倒れた南海郡尉の任囂に代わり南海郡尉代行の任を受けますが、その際、任囂から、「秦の政治は道を失い、中原は乱れている。番禺(広州)は山を背にして、南は海に囲まれ、東西は数千里に及び、人々はよく助け合っている。これもまた一州の主だ。独立もできる。(注2)」と言い残されました。

※注1:趙佗の出生年は不明。前240年頃とされているため、前240年生と仮定して計算
※注2:
「秦政无道,中原扰乱,番禺,负山险,阻南海,东西数千里,颇有中国人相辅,此亦一州之主也,可以立国」(史記)

この前年、中原周辺では、陳勝呉広の乱が発生し、秦王朝は弱体化の一途をたどっていました。そして、次の覇権を争うことになる項羽と劉邦が挙兵します。始皇帝による中国統一がもたらした平穏は乱れ、中国は再び戦乱の世に突入しようとしていました。そんな状況を受けて、趙佗は前206年、34歳の時に兵を起こし広州を首都とする南越国を建国するのです。

趙佗の嶺南制圧は、力による支配よりも、融和により共同で統治することを旨としていました。恐らくこの時、趙佗は、独立して王を名乗りたいという権力欲よりも、自らが版図に組み込み、現地の越人たちと築き上げてきた嶺南の地を、中原の混乱から守りたかったのではないかと思います。

事実、趙佗が南越国として独立したことにより、嶺南の地が項羽と劉邦の争いに巻き込まれることはありませんでした。また、趙佗自身は北へ攻め上がるようなことはせず、劉邦が漢王朝を建国した後も、漢に対して臣下の礼を取ることで、直接対決による戦乱とそれにより引き起こされる苦しみから嶺南の地を守りました。

趙佗は、非常に長命で103歳で亡くなります。その間、途中で漢王朝を牛耳った呂后との間での関係悪化などが起こるものの、基本的に漢との交易を重視しており、南越国を豊かにすることに力を尽くしています。それは、趙佗自身の嶺南地方に対する愛着でもあったようにも思うのです。

2.そこは趙佗が6年を過ごした場所

そして、そんな趙佗が県知事として6年の時間を過ごした場所が、広東省河源市龍川県にある「佗城」になります。26歳から32歳になるまでの、血気盛んな時期です。

この場所は、元々、龍川城と呼ばれていたそうですが、1940年代にここを最初に統治した趙佗にちなみ、「佗城」を名称変更したそうです。

広州からは、広州東駅で鉄道に乗り、龍川駅に向かいます。普通列車で、片道約3時間45分。なかなかの距離です。ただし現在、深圳から続く高速鉄道の建設が進んでおり、2021年内には、高速鉄道の龍川西駅が運用開始される予定です。

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現状では、龍川駅で降りて、バス、またはタクシーなどで「佗城」に向かうことになります。私は、アプリでタクシーを呼んで、大体片道15元〜23元でした。駅前で聞いたら、バイクタクシーで行くという手もあるようです(要交渉)。

「佗城」の古城エリアは、人口4千人が暮らす小さなエリア。着いてしまえば、歩いて散策することも十分可能です。また、秦代の嶺南地区に置かれた4つの都市の中でも保存状態が最も良い古城と言われています。なんと言っても、2200年の歴史を持つ街というのは広東省では珍しいため、目に入るその古城の佇まいに心が躍ります。

さて、「佗城」に着くと、まず街の入り口にある「佗城北門」が出迎えてくれます。秦代の風格を残した城壁の跡ということです。が、当時の城壁は土で盛ったような形だったということですので、この門が実際にいつ作られたのかはよく分かりません。

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また、「佗城」は、「広東省龍川県佗城(千年古城)景区」として観光地となっており、5箇所の観光地が有料となっています。共通チケットは40元です。5箇所の観光地は、それぞれ、「学宮」「越王井」「南越王廟」「考棚」「龍川商会」となります。この内、趙佗に関するものは、「越王井」と「南越王廟」になります。(他の観光地も面白いです。特に「考棚」は科挙の試験会場がそのまま残っており興味深いです)

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まず、「越王井」ですが、文字通り、趙佗が使用していた井戸と言われています。ここは、当時、趙佗が暮らしていたとされる場所の隣にあります。長い年月の中で、途中は寺となり、宋代には光孝寺として建造。その後、井戸も度々修復されて今の形になったそうです。趙佗が住んでいた住居跡というのも展示されていましたが、流石に2200年前の事なので、どこがそうなのかはよく分かりませんでした。

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そして、「南越王廟」は、宋代に建てられた廟であり、900年程の歴史があります。南越王・趙佗を祭る唯一の廟だそうです。現存する建物は、数度の建て替えを経たもので、清代の嶺南建築のスタイルを残しているようです。中に入ると、この地域に関わった偉人たちの像が並び、中央の奥に趙佗の像が鎮座しています。

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3.趙佗を愛する人々

この「佗城」では、趙佗に対する尊敬と愛着が連綿と受け継がれてきたということを感じます。南越国が消滅して1000年以上経った後の宋代に趙佗を祀る廟が建てられたり、観光業などが意識される前の1940年代に町名を「佗城」と変えたりといったことは、現地の人々が2000年以上趙佗に対して敬意を抱き続けてこないとできないことでしょう。

実は、この「佗城」、もう一つ有名なことがあります。人口4万7千人の佗城鎮に、179種類の姓が存在しているのです。更に古城エリアに限定すれば、わずか4,000人程度の人口に、140種類の姓が存在しています。通常、中国の村では、一族が肩を寄せ合って集落を築いていることも多く、村ごとほぼ同じ姓というようなことも珍しくありません。この179種類というのは、中国で確認されている姓の3分の1を占めます。これは非常に珍しいことです。

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そのため、佗城の古城では、一族がそれぞれの先祖を祀った宗廟が数多く存在します。張氏廟、劉氏廟、蔡氏廟、黄氏廟、呉氏廟等等…、まるで宗廟のデパートのような状態です。こうした宗廟では、故人の位牌など共に、一族の家訓や、同じ姓を持つ偉人が飾られており、定期的に祭事を行なっては一族の結束を高めています。佗城にある宗廟はどれも豪華絢爛で、まるで、それぞれの一族の威厳を、この狭いエリアの中で競っているようでもあります。

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そして、このことが、趙佗の行った政策と大きく関わっていると言われています。

始皇帝の命を受けた趙佗らは、中原から、50万人の兵で嶺南地区を攻めました。嶺南地区は当時、未開の原始社会。平定した後は、中原の技術を導入して、文明をもたらす必要がありました。そのため、嶺南地区の平定後、多くの兵士たちはこの地に留まり、国づくりに従事しました。

しかし、兵士は男性ばかり。急に数十万人の男性が増えた上、彼らが所帯を持ち定住するためには、女性も必要になります。そこで、趙佗は、中原から女性を送ってもらうよう始皇帝に頼みました。しかし、送られてきたのはわずか1万5千人に過ぎませんでした。当然、全ての兵士に家庭をもたらすには至りません。そこで趙佗は、自らも原住民の越人と婚姻関係を結び、兵士たちにも越人との結婚を奨励したのです。

こうして、中原と南越は、文化、風習、技術だけではなく、人と人も融和を果たしていきました。佗城に残る数多くの姓は、2200年前に趙佗が行った融和策の動かぬ証拠とも言えるのです。「人の歴史は繋がっている」という、単純で壮大なロマンを感じずにはいられません。

このような融和策は、現代だと少数民族の文化保護という観点から批判を受ける事になるのかもしれません。確かに、趙佗の登場により、生贄などの古い風習は一掃されてしまいました。本来、山で隔てられ、異なる国や文化圏を築いていても不思議でない土地に、共通の言葉や文化を有するエリアが誕生しました。そして、その後、彼らが華南地方の独立などと考えることもないほどに完全に中華と一体化させることになりました。

しかし、そのことは結果的に、異なる文化同士がもたらす国同士の戦乱という災厄から地域を守ったとも言えます。何よりも、中原の兵士と越人という個人同士の関係を考えると、殺し合うよりも、愛し合う方が互いの幸せに通じる道でしょう。そんな彼らの子孫が趙佗へ寄せる敬意を目にする度に、2200年前に趙佗が異なる民族を平和的に融和させた事の偉大さを感じずにはいられないのです。

歴史というのは、きっとこのように作られていくのですね…。

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《 ライチ局長の勝手にチャイナ!vol.19 》

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