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【短編】言霊

「なあ、魂ってどこにあると思う?」
「脳…ですかね。それか心臓?」
「ちげーよ馬鹿。教えてやる。舌だよ。」
「…舌?」
  先輩の話はいつも唐突だ。悪戯な笑みを浮かべて机に座り直し、ペン回しをしながら続ける。
「頭ん中にはな、海があんだよ。でけー海。お前、海見たことある?」
「ありますよ。」
「おー、いいよな海。感情っつーのは全部波で、嵐の時って水嵩が増すだろ?それが溢れてくるのが涙だよ。頭下げるのはムカつくし、上ばっか見てると苦しいだろ?感情のバランスを保つために、みんな背筋を伸ばしてんだ。」
「はあ…。」
「そういう訳で、頭ん中は水浸し。だからな? 脳味噌は舌にあんの。だってさ、考えてみろよ。言葉を吐くのは舌だろ?」
  滅茶苦茶だ。じゃあ“脳”味噌じゃないだろ。
「お前はまだ分かんねーかもしれねえが、言葉っていうのはな、一番すげえんだよ。何よりも。人類が発明した最高傑作だ。言葉そのものが魂だって言ってもいい。何を言うかがそいつの美学なんだよ。じゃあ、言葉ってどこにあるか分かるか?」
「分かんないです。」
「それはな、全部だ。」
「全部…?」
「ここにもあるし、そこにもある。あそこにもあるし、俺のポケットん中にも、お前の鼻の穴ん中にも詰まってんだよ。言葉っていうのはそこら中にあるんだ。でもそれは、簡単に見逃しちまう。普段気にも留めちゃいねーからな。今っていうのは文字通り、今しかない。ひとつ質問。お前は昨日の俺と喋れるか?」
「いいえ。」
「…あのなぁ、お前馬鹿だろ。」
「ええ…?」
「喋れんだよ。言葉を残せば。だからすげーんだ。ひとつひとつの瞬間は今しかない。それを切り取って、忘れねえように仕舞い込むんだ。俺はそういう言葉を、誰かが残した瞬間の痕跡を、全部見つけてえんだよ。」
  陽が傾いてきて、わざとらしく、映画みたいに僕たちを照らした。
「昨日の帰りさ、吊り革に掴まってる禿げた親父が、ぐしゃぐしゃの手帳になんか書いてたんだ。ピークの満員電車だぜ?でも親父の汗ばんだ面は、ずっとその文字を見つめてた。何が書いてあるかは分かりゃしなかった。ミミズみてえな字を必死に溜め込んでたんだ。俺思ったよ。あれは絶対に、急ぎの電話でやらされてる仕事の案件じゃねえし、アイドルとか高校野球についてまとめたキモいメモでもねえ。誰がなんと言おうと、あれは絶対に魂なんだよ。」
  やっぱり先輩はすごい人だ。俺の語彙じゃこの人のすごさを、すごい以外で表現できない。
「やっぱり魂はそこら中にある。みんなが違った美学を持ってる。だって、この世には無限の言葉があるだろ?確かに母ちゃんは死んだけどさ、俺の中で生きてんだよ。思い出すのとは違う。脱いだ靴下はすぐ洗濯機に入れろとか、飯は30回噛んでから飲み込めとか、人に優しくあれとか、あの人のうるせえ言葉は全部、俺の中に入ってんだ。」
  先輩のお母さんは、いろいろ苦労しただろうな。叱られて萎れる先輩を想像したら可笑しくて、つい口元が綻んだ。
「いつか、どっかの誰かが不老不死の薬を作る。これは確定してる。それを飲んだ奴に、この世の全部を話すんだ。母ちゃんの言葉も、俺がこの町で見つけた言葉も、ニーチェも、ドストエフスキーも、ナポレオンも、今まで死んだ奴ら全員の魂を、そいつの中で生かすんだ。そしたらみんな、ずっと生きていられると思わないか?どこにでもあって、どこにもない。トマスモアのユートピアを、この世に作り出すんだよ。」
「そんなことされたら、普通のやつは精神狂って自殺しそうですけどね。」
「確かになー。」
  先輩はひょいと机から降りて、まっすぐ僕を見た。
「じゃあさ、俺が飲む。だからお前が薬を作れよ。」
  あまりにも澄んだ眼に気圧されて、僕は少し仰け反った。
「無理っすよ。」
「無理じゃない。お前ならできるよ。絶対な。だってお前、頭良いだろうが。」
  全く、とんでもない人に気に入られたもんだ。
「作ったのがお前以外の誰かなら、流石の俺でも飲めねえよ。そんな薬やばすぎるし、間違っても死ぬのは困る。」
  先輩の眼はこの世界を見ている。僕の存在はその1ページでしかない。ずっとそう思っていた。それでいいと思っていた。でも、もしそうでないのなら…
「分かりました。任せてください。」
「お、珍しく乗ってきたな。頑張れよドクター。」
  強引に肩を組まれ、思わず首が傾いた。

  チャポン……。

  まさに今、吹き荒れる嵐によって、僕の海は柔らかく決壊した。

美学/首

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