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【短編】蜃気楼

  どれくらい眠っていただろう。煌々と照りつける太陽を半身に受け、冷やかな夜を潜った肉体に再び血が通い始めた。母の腕は未だ、私を包んでいた。汗の溶けた潮風が砂をべたつかせ、肌に纏わりついている。私は昨夜、罪を犯した。

  ほの暗い海辺に微かな月光が垂れていた。皆は寝静まっているようだった。荒屋をひとり抜け出して、漁村の外れにある墓地まで、虫のさざめく泥濘みの雑木林を踏みしめた。
  生前の母は美しかった。柔らかく耳をくすぐる声が大好きだった。死体を掘り起こしながら、その透き通った横顔や、細く長い指先を思い出していた。海から打ち上がった母の肉塊は、水で少し膨張していた。葬儀の際に施された装飾は首にそのまま残っていた。蒼白と黄の混じった肌までが、全て作り物のようだった。それは母にも、また別の何かにも見えた。
  掘った穴を埋めるのもひと苦労だった。土の付いた母の質量を背に担いで、引き摺りながら海を目指した。波が足跡を消すからだ。重い足取りで海辺を暫く歩いた。そして薮の中へ入り、張り巡らされた蔓を躱して、奥まった浜の縁で腰を下ろした。ここには村の大人もやってこない。頭を垂れた木々と岩肌の凹凸によって隔絶された空間だ。母の身体を海水で入念に洗い、崩れてしまった死化粧を全て落とした。そのまま、死後硬直した腕の中に潜り、私は目を閉じた。

  茹る真昼の太陽に焼かれる母の死体は、やはり冷たく、美しかった。歪んだ輪郭線の奥に、確かな生前の面影を感じることができた。しかし、そんな私の高揚を常に、無機質な表情が牽制していた。もう一度だけ、母の温度を感じたかった。母に触れていたかった。罪を犯した私を、夏がぎらりと眼差していた。
  己の冒涜を責め立てる観念は次第に肥大化していった。母の凍りついた死顔は、その毒が廻るのを早めた。その表情は安らかでありながらも、やはりどこかに決定的な欠落を孕んでいた。そしてこの確信は、私の切迫感を暴走させた。私はとうとう、洋服箪笥の上に置かれた母の紅を持ち出した。
  人の生涯は、死へと向かう直線のなかにある。しかし死体に施す紅は、一度終点に至った時間をもう一度生に近付ける。母が二度と還らないことは理解していた。私が今からすることは、死者を弔う礼なのだと、そう信じ込むことで私は己を納得させようとした。絶え間なく陽光の矢が降り注ぎ、蝉たちが鳴いていた。そして私は、母の薄い唇を、親指で紅くなぞった。
  朦朧とする意識のなか、浜を包んだ蜃気楼に私は母の声を聞いた。それは一瞬にして、張り詰めていた糸を全て弛ませた。柔らかく、大好きだったその声に、やはり私は耳をくすぐられた。全て許された気がした。海が青く染めた空を、私はいつしか泳いでいた。恨めしい夏の上を歩いて、母を背に纏い、燦々と輝く光に手を伸ばしていた。どこまでも、飛んで行ける気がした。業火を乗り越えて、どこか遠いところへ、逃げてしまいたかった。

  気が付くと荒屋の天井が見えた。叔母が勝手口の傍で誰かと話している。私に気付くとこちらへ駆け寄ってきた。目には涙が見えた。私は海に浮かんでいたらしい。漁に出ていた船が、帰りに偶然発見したようだ。あれからずっと眠っていたと、叔母に伝えられた。私は母の遺体だけが気掛かりだった。しかし、安静にしろという叔母を振り切ることはできなかった。夜になり、適当な口実を並べて外に出た私は、あの浜へと向かった。
  母の死体はどこにもなかった。満潮に攫われたのだろうか。叔母は母の話をしなかった。深い夜の浜で私はひとり、細波の音に涙を溶かした。心のどこかで安堵している自分から、必死に目を逸らしていた。
  腰掛けようとした岩の側で何かを踏んだ。拾い上げると、それは母の紅だった。脈動が逸るのが分かった。あの死化粧が脳裏を過ぎる。母の手招くような囁きが、海の底から柔らかく、私の耳に触れた。熱帯夜が私を闇へと誘う。月の浮かんだ水面が、微かに揺れている。紅を乗せた親指に、私はそっと口づけをした。

声/口紅

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