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ダイバーシティを強要する社会は、果たして本当にダイバーシティなのか

ダイバーシティ。最近、というか、もうだいぶ前からよく見る言葉だ。

この言葉が流行り始めた当初のワタシは、「ダイバーシティ??え、お台場ダイバーシ、ティ...?」と焦り、急いでググった記憶がある。

ダイバーシティ=多様性。

年齢や性別、人種など多様でいろいろな価値観を持つ人達が、お互いを尊重して、意見を出し合って、イノベーションを生み出していこうぜ!というオールポジディブな意味合いで、企業やメディアで多用されているのだと思うのだけれども。

今日ある出来事がきっかけで、このダイバーシティへの疑念が湧いた。

というか、ずっと、もう結構前から、心の奥に芽生えていた違和感が表に出てきてしまったので、ちょっと一度自分の中で整理しておこうと思って、2021年一発目のnoteを書き綴っているわけですが。もう4ヶ月くらい更新してなかったけど。まだnote続けられそうでよかった。

そう、で、このもやもやはなんだろう。

まずダイバーシティが流行りだしたのって、イノベーションとのセットでだと思うんだけど。

きっと本来の意味では、世界にはもういろいろな人がいるし、価値観も多様だし、そろそろそういうことをみんなで受け入れていこうよ、って雰囲気だと思うんですよね。

だけどなんか、今日本で使われているダイバーシティって、良い意味で普通とは違ってて、革新的で、どこかイケてるイメージがある気がしていて。まあだからきっとこんなに多用されているんだろうけど。

あんまりいい意味ではなく、普通とは外れてて。どうにも生き辛かったり、面倒くさがられるような人たちが、ダイバーシティの外に追いやられているような気がして。というか、そもそものダイバーシティの枠に入っていないというか。

多様性が認められる社会って、本当なら、すべての人にとって、もうすごく生きやすいはずなのに、なんかあんまりそんな空気感でもないような気がしていて。

たとえば、ちょっと今の時代にはそぐわないような考え方だったりも、それはそれでひとつの価値観なわけだけど、それをダイバーシティを目指す今の社会では認めていなくて。

某森さんの騒ぎも、なんかちょっともやもやっとするんだよね。

もちろんあの人の発言は問題だし、あの立場で失言はあかんと思うけど。でもそれをよってたかって責め立て、ただ辞めさせて排除しようとするのって、ちょっと建設的でないような。

多様性を認めるはずのダイバーシティが、なんだか結局、いろいろなものを排除しているような気がしていて。

このいろいろなもの、っていうのが上手く表現できないのだけれど。

なんか逆に、これまでとは違う質感の生き辛さが生まれているのかな、と思ったり思わなかったり。もやっとする瞬間があるんだよねえ。

だからどうすればいい、ってのはまだよくわかりませんが。

と、、また結局よくまとまらない深夜の書き綴りになってしまった。

でもこのテーマはまだまだ自分の中に残っているから、考えていこう。

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