【随想】老人を敬う
日本は人生100年時代といわれ、ますます少子高齢化に向かっている。
子どもたちは、社会科で一人の現役世代が数人の高齢者を支える図を学ぶ。
その子どもたちが若者となり、アルバイトをする頃には「高齢者のお客様」に手を焼くことになる。
高齢者は「お客様は神様」だという認識なので、かなりの認識のズレがある。
選挙をすれば高齢者に利益をもたらす候補者が当選する。
民主主義なので仕方がない。
それらのストレスをキャッチーな言葉で表現できないかと言う気持ちから「老害」と言う言葉が産まれたと思われる。
一方で、日本には年長者を敬うという儒教的な考え方がある。
いや、もうないのか?と思ったが、「敬老の日」が残っていた。
だから、日本にはある。
祝日法に明記されているのだからある。
ただし、そこに意味なんてものはない。
なぜなら、努力してこなかった老人や妬み嫉みの塊のような老人だってたくさんいるのだから。
そんな人たちを年長者というだけで敬う根拠が見つからない。
街を歩いていても、仕事をしていても、「老害」は散見され、ときには聞くに耐えないような態度言葉で周囲の人間に迷惑をかけていることもある。
老害たちはもう、今更考え方を変えられないし、変えるつもりもないし、アップデートのサポート期間も終了しているので仕方がないのだ。
もちろん、最新のアップデートをして最期まで心を高めていこうとしている真に敬うに値する高齢者の方々もたくさんいる。
ただ、これは意識の問題で年齢とは関係がない。
こういう状況ではあるものの、もう一度「敬老」思想を持ってみるのも良いのではないかと思い至ったのだ。
これは、赤信号だから止まる。と同じで秩序を守るためのアプローチである。
敬老思想をもつことにより、
若い人は「敬老ですよねハイハイ」で切り替えられ余計なストレスを回避することができるし、
「老害老人」にとっても自尊心が守られるのでwin-winになるのではないだろうか。
なお、度が過ぎた「老害」は法に裁いて貰えば良いのだ。これも、年齢とは関係ない話だが。
そういうことで、
今年の、敬老の日は9月16日(第3月曜日)である。
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