藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない 【第2話】
第一章 狐狸の、人に化けて池に落つること
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御簾の隙間から入る、春の陽光が眩しい。
脩子は御簾を捲り上げて身を滑らせる闖入者を、苦々しい思いで睥睨した。
殿上童の身なりをしたその少年は、窮屈そうな顔布を剥ぎ取るや否や「ぷはっ」と息を吐く。
それから、悪びれもなく「こんにちは、宮さま」と挨拶を寄越した。
脩子はじろりとその顔を睨みつけると、不機嫌さを隠さずに言う。
「……ひかる。きみ、また来たの」
「はい。いけませんか?」
こてんと小首を傾ける少年を前に「迷惑だよ」と返せば、少年は「またまたぁ」と言って笑う。
類まれなる容貌の少年は、ずけずけと部屋の奥へ上がり込むと、遠慮なく定位置の円座の上に腰を下ろした。
「だいたい『また来た』なんて人聞きの悪い。僕、ちゃんと事前にお伺いは立てたでしょう? 今日は影武者の日だから、お邪魔していいですか、って」
「そうだね、言ったとも。けれど、了承した覚えはないかな」
「あれ、そうでしたっけ?」
少年はとぼけたように言って笑う。
「でも、宮さまは結局いつも、追い返したりはしないんですよね」
「……追い返したところで、きみ、どうせまた来るだろう」
「まぁ、来ますけど」
だって僕、他に時間を潰せるような場所、知らないですし。
そう言って肩を竦める少年を前に、脩子は諦めたように溜息を吐いた。
光る君との思わぬ邂逅から、そう間を置くことなく。
脩子はかねてからの予想通り、『他の姉妹たちの婚活に差し障るから』という理由によって、家族の住まう屋敷から追い出されることになった。
代わりに宛てがわれたのは、現在は使われなくなった旧邸だ。
居住するのは、屋敷の女主人となった脩子と、女房らをはじめとする使用人たちだけなので、とても大所帯とはいえない人数である。
使用しない区画は早々に閉鎖するなどして、さっさと生活環境を整えてしまえば、あとは住めば都というもので。父母や兄弟姉妹たちから白い目で見られることもなくなって、脩子は存外に快適な日々を送っていたのだ。
ただ一つ、誤算があるとするならば。
それは、初邂逅からすっかり縁遠くなったはずの光る君が、頻繁に屋敷を訪ねて来るようになったことだった。
追い返せど、追い返せど、その無駄に整った顔面で使用人たちを懐柔しては、いつの間にかひょっこりと、屋敷に上がり込んでいるのである。
そうして、一向に懲りる気配もない少年は、今日も今日とて脩子の屋敷に居座っては、我が物顔で寛いでいるのだった。
せめてもの救いは、その訪問の理由が『初恋の相手のもとに通い詰める』といった、色恋めいた類のものではないことだろうか。
だが、その通ってくる理由というものが、なんとも無碍にしづらいものであり、困りものなのだ。
「まさか、こんないたいけな子どもに向かって、暗殺の危険があるような場所にさっさと帰れだなんて、言いませんよね?」
少年はそう言って、上目遣いにこちらを見つめてくる。
耳の辺りでくるんと結った下げみずらも相まって、垂れ耳の子犬のようではあるが、騙されてはいけない。
これは、自分の容姿の使い途を十全に心得ているからこその、計算し尽くされた角度、表情なのだ。
その証拠に、少年の目にはからかいの色が濃く浮かんでいて、こちらの反応を明らかに面白がっているのが分かった。小憎たらしい子どもである。
脩子はため息まじりに口を開いた。
「何がとは言わないけれど……相変わらずなの」
「えぇ。困ったことに、相変わらずですよ。父上はああいう御人ですからね、仕方がありません」
暗殺の危険。光る君を取り巻く事情を初めて聞いた時、脩子はそれほど驚かなかった。むしろ、然もありなんと思ったほどである。
というのも、『源氏物語』における桐壺帝とは、なかなかに残念な人物であるから、仕方がない。
たとえば、帝から格別の寵愛を受けていた桐壺の更衣は、他の女御や更衣たちから有形無形の嫌がらせを受けることで、次第に衰弱してしまう。
だが、桐壺帝は憐れな彼女をますます愛おしく思って、貴族たちの誹りに耳を貸すこともなく、世間の噂になるほどいっそうの寵愛を傾けていくのだ。
その、行き過ぎた寵愛のせいで虐められているにもかかわらず、負のスパイラル、悪手に悪手を重ねていくのである。
桐壺帝はそんな風に、桐壺の更衣を愛するあまり、取るべき対応を間違い続けるのだ。そうして無自覚に、彼女の境遇を悪化させ続けるのである。
彼女の寿命を縮めたのは、桐壺帝であるといっても過言ではなかった。
さらに桐壺帝は、更衣の産んだ第二皇子、つまり光る君に対しても、その愛ゆえに暴走する。たとえば、光る君が三歳になった年のこと。
幼児から少年少女に成長することを祝う、袴着の儀式では〝第一皇子の時に劣らぬように〟〝内蔵寮や納殿の宝物を使い果たすほど盛大に〟催させたりするのである。
当然ながら、世間からの非難も上がるが、桐壺帝はお構いなしだ。
光る君を愛するあまり、世間体というものを全く顧みない。
弘徽殿の女御が産んだ第一皇子(東宮)は、公的にはそれなりに大切にしつつ、亡き桐壺の更衣が産んだ光る君は、私的に格別な宝として溺愛し続ける。
となれば、東宮を産んだ弘徽殿の女御や、その実家である右大臣家が危機感を覚えるのも、当然の帰結だろうといえた。
何せ、舞台は権謀術数の渦巻く平安時代である。宮廷貴族にとって、天皇の外戚となって権勢を握ることは、政治的なパワーゲームの上で非常に重要な意味を持つ。
弘徽殿の女御や右大臣方からすれば、光る君は是が非にでも亡き者にしたい存在に違いなかった。
「僕はもう、臣籍降下が決まっている身なんですけどね。どうにもあの人たちは、僕のことが邪魔で仕方がないみたいで」
光る君はそう言って、おどけたように肩を竦める。
だが、平安時代の前期にはすでに、一度は源氏性を賜ったにもかかわらず、皇位に就いた前例も存在するのだ。
世相を大いに反映した物語の世界観において「臣籍に降下したから」という理由では、安心材料として弱すぎる。
それが分かっているからこそなのだろう。光る君は「ほんと、困っちゃいますよね」と苦く笑って見せた。
「時々、僕ってものすごく可哀想なんじゃ、と思うことがあるんです」
「安心していい。きみはまぁまぁ可哀想だよ」
「わぁ、やっぱり。でも、全く喜べないや」
光る君の最も同情すべき点は、帰るべき家が〝後宮〟であるということだろう。
通常、天皇の子どもは母方の実家で養育されるもの。
だがこの少年はといえば、養育してくれていた祖母までもを、六歳の時点で亡くしている。
唯一の後ろ盾を失ってしまった幼な子は、結果として、桐壺帝の手元で養育されることになるのだが──。その養育環境はといえば、必然的に後宮ということになる。つまり、彼は自分の実母を虐め抜いた女たちの園で、生活をする羽目になるのだ。
死してなお、帝の寵愛を独占し続ける桐壺の更衣と、その遺児の存在。
他の女御や更衣たちからすれば、忌々しいことこの上ないだろう。
にもかかわらず、桐壺帝は「ほら見てこの子。こんなにも可愛い上に、とても聡明なんですよ」と自慢しながら、光る君を連れて後宮を練り歩くのである。
挙句の果てには「こんな麗しい子を、誰も憎んだりは出来ないでしょう。ぜひ可愛がってやって欲しい」などと言って、光る君を弘徽殿の御簾内へと送り込むエピソードだって存在するのだ。
暗殺の好機を積極的に与えんとする、鬼の所業である。
「僕、顔なんて所詮、骨と皮だと思ってるんですけど……。でも、使えるものはなんだって使ってやりますとも」
やたらに擦れた物言いの少年は、死んだ魚のような目をして呟いた。
「せめて『殺すのはさすがに可哀想だなぁ』とか『暗殺に加担するのは、寝覚めが悪いなぁ』とか……。最低限、それくらいは思ってもらえるように、四方八方に愛嬌を振りまいて、あざとく懐いて取り入って……。それでもやっぱり、一部からは命を狙われちゃうんですよね。いや、本当に不憫だと思いません?」
「はいはい、そうそう、可哀想。だから、追い返してはいないでしょう」
「……あなたは、もうちょっと僕に同情してくれてもいいと思う」
「同情なら、しているわよ」
それこそ「本音では、死んでも関わり合いになりたくない」という思いを曲げて匿ってやる程度には、きちんと憐憫の情を抱いている。
とはいえ、下手に優しく接することで、初恋フラグを再建してしまうのは避けたいところだ。だからこそ、これくらいの雑な距離感でちょうど良かった。
すでに、妙な懐かれ方をしてしまったというのなら。
もういっそ、姉弟のような関係性を築いた方が賢明というものだろう。
そういうわけで、かれこれ二年ほどだろうか。
光る君との奇妙な関係は、未だにずるずると継続しているのだった。
「そういえば、今日はなにを読んでいらっしゃるんですか?」
ひょっこりと手元を覗き込んでくる頭に、脩子は「荀子だよ」と返す。
「面白いですか?」
「まぁ、哲学の話だからね。面白いかな」
「じゃあ、読み終わったら貸してください」
顔を上げた少年は、一旦は興味を失ったのか、あっさりと立ち上がった。
それから「僕も、今日はなにを読もうかな」と呟きながら、書棚の間に消えていく。
寝殿造の家屋における、半屋外の縁側である簀子、その内側にある庇の間。
庇の間から、さらに御簾によって区切られた内側の空間は、本来であれば母屋と呼ばれる区画である。
客人を招いて、宴を開く時にも使用するような、大広間のようなその空間。
母屋に壁は存在せず、壁に代わって空間を仕切っている御簾を全て上げてしまえば、柱が等間隔に渡してあるだけの、開放的なその区画は。
こと脩子の屋敷においては、その大半が背の高い書棚の列によって占領され、小さな図書館のような様相を呈していた。
端っこの方に、申し訳程度に組まれた御帳台と、部分的に敷かれた畳が三畳分。そんな読書スペースだけが、御簾の内側でまともに残された場所である。
脩子は畳の上に寝転がると、読みさしの冊子の頁をめくった。
「……荀子も孟子も、宮中にだってあるだろうにね」
ぽつりと呟けば、書棚の間から声だけが返ってくる。
「そりゃあ勿論、あるんでしょうけど……。ここに来れば、大体の書物が揃っていることが分かっていて、わざわざ持参したりしませんって。宮中を抜け出すのに、荷物になるだけじゃないですか」
「そういうものかしらね」
「そういうものですよ。手荷物なく、時間も潰せて、時々お茶やお菓子までいただけて。ここって本当に、一石二鳥の隠れ家なんですよね」
「ここは漫画喫茶じゃないのだけどな。……初対面の時に、漢文の話を持ち出しちゃったのが、運の尽きだったのよね」
「え、なにか言いました?」
「いいえ、こちらの話」
光る君は、桐壺帝と行動をともに出来ない時などに、決まって脩子の屋敷へと転がり込んでくる。
護衛や付き人の目も多い帝の近くにいれば、比較的安全であるらしいのだが、どうしても父親のそばに居られない日や時間帯もあるのだろう。
そういう時には「勉学に励むために、部屋に籠もっている」という体で影武者を立てて、内裏を抜け出して来るのだという。
少年はいつも、殿上童の身なりに、目から下を布で覆った覆面姿でやって来た。殿上童というのは公卿の子弟で、元服以前に宮中の作法見習いのため昇殿を許された少年のことだから、宮中を歩いていても確かに不自然ではない。
だが、覆面の方は、さすがに人目を引くだろう。
そう思いきや、案外そうでもないらしかった。
平安時代は、天然痘が猛威を振るった時代でもある。
罹患後に生き残ったものの、顔に痘痕が残ってしまう者も多かったために、顔を隠していても「きっと痘痕を隠しているのだろう」と、怪しまれることはないのだという。
むしろ、そんな相手をじろじろと注視する方が無作法であるからして、人々は率先して見て見ぬふりをする程なのだとか。上手いこと立ち回っているものである。
書架の間を、小葵紋の童直衣が行き来するのを目の端で捉えながら、脩子はふと尋ねてみた。
「……そういえば。きみ、幾つになったのだっけ」
「数えで十三ですけど……それがどうかしたんですか?」
書棚の陰からひょこっと顔を覗かせた光る君が、訝しげに聞き返してくる。
この数年で、光る君はだいぶ背が伸びた。出会った頃は見下ろせるほどに小さかったのに、今では脩子の背丈と変わらない。
少年から、青年へ。
その過渡期特有の危うげな色香は、日に日に増していくばかりである。
そんな、着々と物語の光源氏へと近づいていく少年に対し、脩子が思うことといえば。どうしてこの子、まだ元服していないんだろうな、ということだった。
光源氏の元服──つまり成人は、数えで十二歳の頃であったはずだ。
物語の通りであれば、今頃は葵の上と、ギスギス新婚生活を送っているはずの頃合いである。
だというのに、どうしたことか、光る君の元服は未だに執り行われていないのだ。
「きみ、元服の話は出てないの?」
「はい。今のところは、まだ」
「それは、桐壺帝の意向?」
「……まぁ、はい」
苦笑まじりのその声に、脩子は何となく事情を察して「そう」とだけ返した。
おそらく、桐壺帝が手放したがらないのだろうなと、当たりをつける。
今でこそ、光る君の住む場所は後宮だが、成人すれば(形式上は)後宮を出なくてはならない。
ジェネリック桐壺の更衣の不在──つまり、脩子が藤壺の女御として入内しなかったことにより、光る君への執着がさらに増しているのかもしれなかった。
多少の罪悪感から「南無三……」と書棚の方角を拝めば、「宮さまがまた変なことしてる」と笑われる。おまけに言葉の使い方も間違っている気がするが、まぁいいかと脩子は開き直った。
光る君は書棚を物色し終えたのか、いくつかの冊子と巻物を手に取り戻ってくる。それから、寝転がる脩子を見下ろすと、小さく肩を竦めた。
「まぁ僕も、今すぐ元服したいってわけでもないし、別にいいんですけどね」
「そうなの? 針の筵の後宮を出られるっていうのに、物好きなことだね」
「だって、元服したら、宮さまは御簾の内に入れてくれなくなるでしょう?」
「まぁ、それはそうだろうけれど」
御簾をフリーパス出来るのは、まだ元服や裳着を済ませていない、未成年までだ。それがこの時代の通念である以上は、いずれはそういうことになるのだろうが。
光る君は、御簾の内側にある書棚の列をぐるりと仰ぎ見て、うーんと唸った。
「だったら、元服はまだ良いかなーと。正直、あと二年くらいあれば、ここの蔵書もぜんぶ読み切れると思うんですよね」
光る君はそう言うが、ここの蔵書を読むためだけに、元服を遅らせるというのは如何なものだろうか。
「きみが望むのなら、別に書庫は、御簾の外側に出してもいいのだけどね。あ、屋敷の隅にでも、土蔵を作ってあげようか」
弟分のような存在の生活環境には、一応、本気で同情しているのだ。
元服すれば、自動的に後宮から出られるのだから、ここの蔵書が気残りだというのであれば、それぐらいはしてやっても良い。
しかし、当の光る君はといえば。脩子の老婆心に対し、とても残念なものを見るような目を向けてくる。
「それって、元服してからもここに通っていいよ、って言ってます?」
「あー、うん、なるほど……間違えた。断じてそういう意味ではないから、今のは忘れて欲しいかな」
脩子が慌てて否定すれば、少年は心底呆れたといった様子でため息をつく。
「まったく。宮さまがただの考えなしで、これっぽっちも他意はないんだってこと、僕は分かっているからいいですけど……。そういう思わせぶりなこと、他の人に言っちゃ駄目ですよ」
「ぐっ、正論が五寸釘みたく突き刺さる……」
中学生くらいの子どもに嗜められては、脩子もバツの悪い思いをするしかない。
とはいえ、光る君の言うことはもっともだった。
平安時代の結婚スタイルは、招婿婚。若いうちは、夫が妻の家に通う方式である。
『元服後にも、通って来ていい』という発言は、そういう意図として捉えられかねない、迂闊なものだった。つい、現代人の感覚に引きずられてしまったと反省する。
幸いなことに、光る君の反応は、出来の悪い姉に呆れる弟そのものだ。
特に含むところもなさそうなのが救いである。
(本当に、姉弟のような関係になっておいて良かった……)
そう安堵しつつ、脩子は再び書物の方へと意識を戻したのだった。
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