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見極めと見切りの大切さ


私が初めて
見極みきわめ」「見切みきり」
という言葉を意識したのは、


昔 父親と 
宮本武蔵のTVドラマを観ていた時だった。


たしか
役所広司さんが武蔵を演じていたドラマで、
小次郎役の俳優さんは 残念ながら
どなただったか憶えていないのだけど


たぶん 二人の最初の邂逅かいこうのシーンで
言葉を交わしたあとに別れるとき、
武蔵が 後ろに数歩 下がってから
小次郎に目礼をしたので、
私は父に
「どうして武蔵はわざわざ後ろに下がったの?」
と聞いた。


父はこう答えてくれた、


「小次郎の刀の 長さを見切ったんだよ。
頭を下げたら、すきができるだろ。
だから もし小次郎がいきなり刀を抜いても 
自分が切られない距離を見極めて、
そこまで移動してから、挨拶したんだよ」


私は そうなんだぁ、すごいなあ
と感心しながらも、
初めて意識させられた、その
〈見切る〉とか〈見極める〉能力のことも含め、


世の中にはまだ こんなにも
自分の知らないことが たくさんあるんだ…


大人になって 社会の一員になるまでに 
一体あと どれだけの さまざまなことを、
私は勉強したり 
修行(?) したりして
身につけなければならないんだろう… と


自分の前に長く伸びている
茫洋ぼうようとして先の見えぬ 果てしない道を思って
その途方も無い道程どうていを思って


漠然とした怖れ、
でも「この世に生まれてしまったからには」という
あきらめにも似た覚悟、
そして おそらくひたすら 心身の消耗に耐える
将来の自分の姿を思って、
少しうんざりした。


その後、やがて大人になって
この言葉たちはなんとなく 
頭のすみに残ってはいたけど


毎日 日々の生活に追われていると
あまり深いことは 考えなくなっていく。


そして 
いま目の前にあるものに
なにか 自分と調和しない違和感を持ったり、
かすかにくすぶるような不満があったとしても、


真剣に突き詰めては考えず、
強い疑問も持たず、
ただ惰性だせいで受け入れて、時を重ねていく。


幸か不幸か
日本のような先進国では
衣食住は ほぼ保証されているから、
何も考えずに
惰性で生きていくことも 可能だ。


けれど実際のところ
そんな 一見「平和」な日常生活においても、
神経をぎ澄まして 
見極め 見切るべきことは、
意外とある。


そしてそれらは往々おうおうにして
自分の人生の 
質や 方向性を
決定してしまうほどの重要性をもつ。


人にはそれぞれ 
多岐にわたる悩みがある。


家族、仕事、職場、恋人、友人、健康、生活環境…


この仕事を続けるべきか
この環境下に居続けるべきか
この人と この関係を続けるべきか
この方法を 再度検証する必要はないだろうか
この要求をのみ続けるメリットはまだ残っているか
……


人であっても 
物事であっても
特にそれが
自分の意に染まないものであるなら


最終的に 冷徹な目をもって
〈見極め〉〈見切る〉ことは 
とても大切なことだと思う。


そして 状況によっては
見限り、
切り捨てることも
必要な場合もある。


人生を生き延び、
自分自身を救うためにも。


生活上や 人生のさまざまな場面に於いて
見極めと 見切りの判断が
必要とされているのに、


普段 たいていの人たちは
ただずるずると
同じ状況に引きずられたまま 
変わることのない苦しみを受けつづけ
日々を過ごしていることが多い。


きっといろいろな理由や 状況があるのだろう。


でも 多くの場合において
「自分には出来ない」と思い込むのは、
勇気に欠け
自分の頭で ものを考える習慣のない人が
おちいりやすい傾向じゃないかと思う。


「この状況を打開するには」という命題で
不本意な環境を変えようとする意思をもって


自力で考え、
自分の知恵やエネルギーを
使おうとするのではなく


誰か 他の人からの助けや 
判断や 助言を待つばかりで


自分では嫌だと思っているその状態から
逃れるための準備や手段、あるいは
それを止めるすべも持たずに 
ただ 苦しみ続けてしまう……
まるで 無知で無力な 子供のように。


自分の置かれている環境や 
状況を変えようとするには、
とてつもない勇気と 
胆力たんりょくと 
エネルギーが必要とされる。


自分にはそれをまかなえない と
人を諦めさせてしまう要因は多いのだろうけど


努力というものは 常に
困難と 労力と 挑戦を
人にいるものに 他ならない。


『石の上にも三年』といったような格言にさえ
時間的区切りは とりあえずついている。


いつまでも〈見極め〉をせずに 
ずるずると同じことを続けていても、 
そこに意義は もはや無いし 
自分自身も疲弊していってしまう。


よく言われる事に
「自分が変えられるのは、自分自身だけ」
(意として「人を変えることは出来ない」)
という言葉がある。
仮に 
嘘をつくことが習慣の 不誠実な人間に対して 
いつまでも辛抱強く 
誠実さをもって対応することに
どれほどの意義があるだろう。


子供向けの童話なら 
忍耐から教えられることもあるけれど、 
現実社会で 
自分自身を含め 他の人間も共に
その生活や 生命がかかっているなら


ある時期を過ぎたら 
〈見極め〉〈見切る〉判断を
しなければならない。


客観的に ものごとを見て 
現実的に 対処しなければならない。


自分自身の知恵と 
洞察力と
勇気をもって。


見極めと見切りの大切さは
すべてのことに及ぶ。



……というのが前フリで
実は本題は これからです。


今年はオリンピックイヤーだから
この記事は書かなくちゃと思ってた。


国際情勢を自分の意識内に入れている人なら
すでに認識済みのことだけど


近年、オリンピックなど
衆目が集まりやすいイベントの陰に隠れるようにして
軍事/テロ行動が 起こされるケースが多い。


試みた結果が 失敗に終わればいいのだけど、
『目的を遂げた成功例』になってしまった場合、
その手段は
繰り返されたり、模倣されたりする。


軍事行動 あるいは テロ行為が起こされる時、
標的を直接攻撃する場合もあるけど


陽動目的で 
無関係の場所で 無関係の人々などが
犠牲になる場合もある。


一見バラバラな事件や出来事にも
ある〈方程式〉を使えば 
同じ解答が出て来たりもする。


そういったことを知った上で 
いつもと同じように平常心でいて、
必要な時には 
その知見を使って対処できる人と、


情報をまるで持たず 警戒も 用心もしないまま、
準備と 認識不足で
犠牲になってしまうかもしれない人…


自分で知識を得ようともせず
自分には関係ない  と
何も考えず 行動しないことの差は、
最悪の場合
生命にも関わってくるのでは… と懸念する。


日本国内に住む日本人たちには
世界で起きているような出来事はまるで無縁だ と
誰が言い切れるのだろう?


杞憂に終わればそれで良い。


けれど 
日本でもテロ行為は起きている。
あなたがそう認識していようといまいと。


これからだって
もっと「想定外の」出来事が
起こる可能性はゼロだと 誰が言い切れる?


こういう記事を書くのは
怖がらせたいわけではないので
今回は 
〈可能性を意識する〉ということと、
そのためには
人に対しても 物事に対しても
自分の目で〈見極め〉、〈見切る〉ことが
時には必要であり、大切なんだ
ということが お伝えできればと思います。


たぶんこの話題、続きます…



書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡