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宿災備忘録-発:第4章3話②

久遠が歩き始め、足元の雪がぎゅっと音をたてる。続いて、美影も足を動かした。寒気はとうに消え、黒いシャツは役目を終えている。しかし美影は、余った袖を数回折り返し、胸元のボタンを、ふたつ留めた。
 
再び屋敷に踏み入れる。四季を描いた襖は開け放たれたまま、深緋の回廊まで一直線。
 
2人は、申し合わせたわけでもないのに、同じ方向に足を進めた。神様の部屋。フキがそう表現した部屋に、巫女はいる。そんな予感があった。
 
襖の前に辿り着く。久遠は横目で美影の存在を確認した後、襖に手をかけた。一気に開け放つと思いきや、ふっと手から力を抜く。
 
「災厄と通じる準備はできているか?」
「何か起きるかもってこと?」
「山に棲むものたちは、山神の庭に行くと言っていた。だが、草原にも、屋敷へ続く道にも、庭にも、何もいなかった。零念の姿もな」
「みんな、この中に……攻撃してくるの?」
「零念は人間の穢れだ。友好的な態度はとってくれない。宿災が、他者を宿す器が、近くにいる。なら、宿らない理由はない。俺が屋敷の門を開けた時の、あのイメージを描いておけ。いざという時は、渡した石を投げつけるんだ」
「わかった」
「俺の後ろに……開けるぞ」
 
頷きながら、美影は久遠の後ろに身を隠した。自分自身に、落ち着いて、と声をかけるよりも先に、久遠の手は襖を開いた。途端、異臭が鼻を突く。
 
 
灯りのない空間
広がる異臭
不快な湿気
こもった熱
 
散らばった膳と椀
畳に点々と染みる赤
 
座敷の奥
豪奢な屏風の前
沸々と動く背中
傍らに面
鼓膜に触れる不快な咀嚼音
 
 
耳に流れ込む音が、美影の口内に苦味をもたらす。思わず口元に手を。五感の全ては空間に嫌悪を示し、美影の足を後退させた。
 
 
――あれは巫女?
  つくも神は?
  山に棲むものたちは?
 
 
零念の飛び交う気配もない。襖から手を離した久遠が、座敷に足を踏み入れる気配もない。美影の脳は、目の前の景色にひとつの可能性を描いた。
 
 
畳に染みた赤黒い液体
異臭
終わらない咀嚼音
 
巫女は
ここに集まったなにものかを
食べている
 
 
「美味いか? 巫女」
 
久遠の響きに、巫女の背中は動きをとめた。畳の上に置いた面に手を。指先に赤。
 
「美味いも不味いもねえ」
 
巫女は立ち上がり、ゆっくりと振り返った。顔には面。白い面に付着した赤い指の跡。咀嚼を続けているのか、面は細かに動いている。白衣には赤い染み。朱袴も足袋も赤黒く染まり、巫女と聞いて思い浮かべる神聖さとは、真逆の様相。
 
「勝手に、こんなところまで……用があるなら、さっさと言え!」
 
空間を貫くような鋭い声に、美影は恐怖を覚えた。その胸元で石が震える。
 
 
――今なの?
  これを
  あの人に?
 
 
今がその時か、否か。熟考する余裕などない。美影は久遠の背中から離れた。
 
「待て」
「大丈夫……大丈夫だから」
 
久遠の制止を振り切った声は震えている。しかし美影は、自分の深部からの合図に従い、巫女に近づいた。首から外したチェーンを掴み、右手を掲げ、先にぶら下がった石を、巫女に。
 
「これを返しにきました……貴方の物ですよね」
 
巫女は黙って、畳の上を進み始めた。赤い飛沫で汚れた足袋で、一歩、また一歩、美影に近づく。赤く汚れた面。当然、表情を変えない。咀嚼音。続く嚥下の気配。不気味。しかし美影は、足を引かなかった。
 
美影と巫女。腕を伸ばせば互いに触れられる位置に。小柄な巫女。見上げてくる白い面の前に、美影は手にした石を差し出した。
 
「この石が、どうした?」
「……これを貴方に返しにきました。これがなくなったから、だから貴方は心を乱したんじゃないんですか?」
「は? なんの話だ?」
「巫女の、涙石……」
「信じてんのが? くだらねぇ作り話を」
 
失笑。続く失笑。巫女は徐々に笑いを大きくした。その音は空間を揺さ振り続け、そして、
 
「巫女の涙石? 巫女が淵に落した涙は水で清められ穢れは消える……くだらねぇ。湖野の年寄りどもは、今でも子どもらを騙してんだなぁ。そんなもんで……水で洗ったぐれぇで穢れが消えるわけねぇ!」
 
すさまじい怒気。怯んだ美影の手から巫女は石を奪い取った。
 
「返すんなら、返してもらう」
 
巫女は美影の横をすり抜けた。足音は数歩進み、止まる。振り返った美影。その視線の先。久遠と対峙する、巫女の後ろ姿。
 
「お前は色々と知っているようだな。話して聞かせろ……」
 
言って巫女は、座敷を後にした。
 
回廊へと進んだ巫女。その背中が消え、久遠の視線が美影に移る。
 
「大丈夫か?」
「うん……」
 
面白くも、嬉しくもないのに、笑ってしまう。これはおそらく防衛本能。恐怖を追い払うための緊急措置。しかし頬は次第に引きつり、奥歯がガタガタと音を立て始める。美影は両手で頬を押さえながら、久遠のもとへ。
 
「お前は、何を見ている? 過剰な恐怖は捨てろ」
「捨てろって言われても……こんな血まみれの部屋、誰だって怖くなるよ」
「それは巫女が見せている幻だ」
「え?」
「俺には、そんな光景は見えていない。ただの座敷。巫女が何かを食べていたのは確かだが、血は流れていない」
「嘘……私に、だけ?」
 
 
美影は座敷を振り返った。確かに、赤黒い染みが、畳を汚している。。
 
「ここは現実ではあるが普通ではないと言っただろう。この屋敷の中は巫女の領域……他者を寄せつけないために、一種の結界が施されているはずだ」
「巫女も結界を?」
「屋敷を作った時に術師が携わったんだ。迷い人が入り込んだ時、相手を傷つけずに追い出せるようにな。屋敷の主の意に沿う幻影を作り出す……おそらく、そんな力を持った結界だろう」
「幻影……」
「忘れたか? ここで、ここで見るんだ」
 
眉間を指で突き、久遠は美影の反応を待つ。美影は大きく深呼吸をし、頷きを。
 
「行けるか?」
「うん」
 
久遠は薄雪の回廊を進む。美影は背中を追った。回廊を半周し、部屋に入る。襖に描かれているのは、月に照らされた雪山。冬の間。そのほぼ中央に座した巫女。
 
「女。名は?」
「……山護美影です」
「ソウヤの娘か」
 
娘。美影の脳に突き刺さった響きは、不安定に繋がっていた糸を固く結びつける。しかし、真実を手に入れた喜びは湧き上がらない。沈黙し、巫女を見据える美影。2人の間に張られた緊張感を断ち切ったのは、久遠の響き。
 
「ソウヤは、この屋敷にいたんだな?」
「ああ……おらはずっと独りだったがらな。話し相手が欲しくて、留まるように言ったんだ」
「ソウヤについて知っていることは?」
「母親は異国の人間で、ソウヤは父親に連れられで、子どもの頃、この国にきたらしい。そんなことぐれぇだ……この国の言葉は、あんまり喋れねがったがらな」
 
巫女の声に、微かな穏やかさが宿った。それとほぼ同時に起こった変化を、美影は見逃さなかった。巫女を染めていた赤黒い染みが消えた。白狐の面は、表情をやわらげたようにも見える。
 
美影の視線は、巫女から久遠へ。受け止めた久遠の目は、わかっただろう、と言った気がした。
 
「ソウヤは気持ちの優しい男だった……言葉が通じねくても、それはわがる」
 
音なく立ち上がり、巫女は紅葉に燃える山が描かれた部屋へ。庭園側をふさいだ障子を開き、雪に眠る空間を露わにした。
 
「庭の手入れを頼んだ。馬の世話もな。よく働く男だった。フキの面倒も、ソウヤがな……」
 
巫女の響き。ぴたりと途切れ、空間に冷気が走る。割れた薄氷のような鋭さ。
 
「気を抜くな」
 
久遠が零した小さな響きに、美影は頷きを。
 
「おらは湖野の年寄りどもに騙されて、ここさきて、なげぇ間独りだった。ソウヤがきて、やっと、やっと笑えるようになったのに……それをあいつが……おめえの母親が全部、持ってったんだ!」
「湖主ハルのこと?」
「迷い込んだハルを、ソウヤが連れてきた。仕方ねぇがら庵さ住まわせた。まさか孕むとは……ここでは産めねぇがら湖野さ戻るってよ。そう言って勝手に出てったくせに、たいして日も経たねぇうちに戻ってきた。赤ん坊を連れてな」
「それから、それからどうしたの?」
「死んだ。戻って数日も経たねえうちに。罰が当たったんだべ」
 
言葉終わり。含まれた笑い。一度止まったそれは、白い面の内側から徐々に漏れ出す。そして次第に大きくなり、空間を満たした。
 
美影は母について、なんの記憶もない。声も、温もりも、何も知らない。しかし、母と認識した人の死を笑う声に、怒りが湧かないはずはなかった。
 
空間に広がった不快な音を浴びながら、美影は巫女の前に進んだ。巫女の手には、まだ石が握られている。はみ出したチェーンを強く引き、美影は巫女から石を奪い返した。
 
「なにを……返すんじゃねがったのか? それとも持っておきてぇか、父親の形見に。おめぇにこれを渡したのはソウヤだもんなあ……ソウヤも死んだなぁ。誰にも看取られず、むごたらしくな」
 
憎々しい響きが終わるか終わらないか。美影の右手は石を放し、巫女の頬を打っていた。
 
「笑うな……笑うな!」
 
語気は強く。しかし頬に涙。それを拭わず、放してしまった石を急いで拾い上げる。
 
「終わりか……言いてえことは、全部言ったか?」
 
巫女の声に美影は顔を上げた。そこには、面の外れた巫女の姿。目、鼻、耳、口。顔に空いた全ての穴から黒を滴らせ、巫女はにやりと笑う。
 
美影が悲鳴を上げる前に、その華奢な体は宙を舞った。美影を跳ね飛ばしたのは、庭木に座していた雪塊。美影は背中で襖を破り倒し、そのまま動きを止めた。
 
「うるせぇのはいなぐなった。さあ、おめぇの話を聞かせろ……脱厄術師の倅!」
 
巫女から滴り落ちる黒は、じわりと畳を染め始める。それが幻影ではないことを、久遠は理解していた。巫女の体に、何が起きているのかも。
 
畳に落ちた黒が、じりじりと久遠を目指す。それに臆せず、久遠は巫女の前へと歩を進めた。


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