見出し画像

宿災備忘録-発:第4章4話

巫女と久遠、向かい合い、沈黙。久遠は、黒が滴る巫女の顔を見据えた。この顔を知っている。石寄の手帳、隠されていた写真に写っていた女。
 
「湖主ハルだな……生きていたのか。なぜ嘘を?」
「黙れ」
「贖罪のつもりか」
「黙れと言った」
「写真とは、だいぶ違う。その姿を見られたくなかったか……突然吹き飛ばされたんだ。あいつは、まともに見てはいないだろう」
「はっ、慰めのつもりか……余計なお世話だ。そんなことを言ってる暇は、ねぇはずだぞ」
 
巫女は笑い、自分の足元に広がった漆黒の水溜りを、びちゃりと踏みつける。久遠に向かっていたねっとりとした黒は、倒れたままの美影に向かい、ゆっくりと動き始めた。
 
「いいのか? 零念どもの餌食になるぞ」
「そうする意図で垂れ流したわけではないだろう」
「なに?」
「餌食にしたかったのなら、喰わずに潜ませておけば良いだけのこと……いつまで悪役に徹するつもりだ」
「なんの話だ」
 
久遠は軒下に視線を。
 
「随分と立派な氷柱ができているな。あいつを傷つけたければ、雪の塊ではなく、氷柱でひと刺しすることもできた」
「うるせぇ男だ……見ろ、もうすぐ娘に襲いかかるぞ。止めないのか?」
「止めて欲しいのか?」
「なんだと?」
「もう自分では穢れを留めきれないか……喰いすぎだ。俺は食ったことはないが、零念は不味いだろう」
「美味いも不味いもないと言った……いいのか、娘を放っておいて」
「特別にあつらえた服を着ている。雑魚には破れない結界だ。俺の気を宿した石も身に着けている。それに、微力ではあるが、俺も結界を施せる」
「いざとなったら親父の真似事か。小賢しい……娘に持たせた石は、気宿石だな。おめぇは、それを通して、その娘が見た幻を知った。自分は術に惑わされなかった」
「気宿石の存在を知っているんだな」
「おめぇの親父から教わった。人の気が宿るなんて、嘘みてぇな話だよ」
 
巫女は顔面を黒く染めたまま、身を動かし始めた。その足取りは重く、畳の上に引き摺られた袴は、黒い曲線を畳に残す。
 
久遠は秋の間から動かず、巫女が足を止めるのを待った。巫女は老婆のように腰を折り、隣室へ。夏山が描かれた襖の前まで進み、ゆっくりと、襖に手を伸ばした。
 
若いはずの巫女の手。五指全て、節々がはっきりとわかるほどに皺枯れている。
 
「巫女……お前には、もう時間がないんだろう? 穢れを喰らい、穢れに喰らわれる。そこまでして、何を望む?」
「望んだって、なぁんも叶いはしねぇ」
 
薄く笑い、巫女は穢れが滴った手の平を、夏山の稜線に被せた。指は稜線をなぞり、山を下り、滲んだ黒は萌える緑に影を与えた。それを撫でながら、巫女は音を紡ぐ。
 
「其の身に災い封ずる生業の者有り。荒ぶる天地川海に向かうほどに幾多の災厄宿りき。宿りし災厄、身に纏いし結界に封ずるが、人智の及ばざる力なりて、あやしき者と疎まれり。人目憚り陰に住まい、災厄と共に生きるほどに、あやしき力を以て蠢く穢れを滅する事覚ゆる。力衰えし地に赴き、蔓延りし穢れを祓い、再び陰に隠れり。其の者何時しか、宿災と呼ばれり……陰に住まい、陰に隠れ……それで一体、何が残る!」
「お前はなにを残したいんだ?」
「なんも残らねぇと言った」
「いや、残した。お前は美影に、思いを残したい、渡したいはずだ……そろそろ本当の話を始めてくれ。湖主ハルとして、俺と、あいつと話をしてくれないか?」
 
巫女は指先で襖を突き破り、久遠の言葉を断絶。巫女は指を襖に捕らわれたまま、両膝を折った。
 
畳に伏した膝。そこから広がる穢れ。表面は沸々と動き出し、現われた気泡は膨らみを大きくし、弾けた。
 
飛び出したのは、小さな羽虫を模した零念。それは気泡が弾けるたびに生まれ、瞬く間に秋の間を占領。羽音も鳴き声も上げず、ただ不快な蠢きを携えながら集結し、久遠の前に、久遠の輪郭を持って立ちはだかった。久遠はじっと、零念と向き合う。
 
「零れ落ち、喰らわれ、再び零れ落ちる……お前達は、悲しいな」
 
一縷の情を覗かせた久遠に、零念は抱きついた。黒髪の天辺からつま先まで、ちりちりと細かな蠢きに支配された久遠。しかし、その姿は刹那。
 
 
一陣の風
引き剥がされる零念
空間に散らばる黒
突き抜ける雨粒
 



 
砕けた黒
風にさらわれ無に還る
 
 
「はっ……おめぇと一緒にいる災厄は、随分と聞き分けがいい」
 
巫女は湿った笑みを浮かべた。襖から指を抜き、畳に崩れ落ちる。赤ん坊のような四つん這いの格好。上目遣いで、憎々しく、巫女は久遠を見据えた。
 
目鼻から零れ落ちていた黒は消え、口元に残った黒だけが、いまだ生々しさを持って顔を染めている。体は、無駄に大きな着物を纏った子供のよう。骨の形状をあらわにした喉は、痛々しい動きを見せる。
 
「おらが、湖主ハル……そんな話、信じたのか?」
「どういうことだ?」
「おらも、あの2人も、作り話がうめえんだ……湖野で育っただげのことはある」
「お前は、あの写真の……赤ん坊を抱いていた女だろう?」
「んだ……だども、湖主ハルじゃねえ……あっちは湖野の旧家のお嬢さん、おらは親に、あの町の人間に厄介ものにされ、山に閉じ込められた、名前も忘れた人間だ……山護美代は、こんなおらに同情したんだな……んだがら、あんな作り話を」
 
荒い息遣い。過剰に上下する巫女の肩。あからさまな息苦しさを目の前に、久遠は声を潜めた。
 
「その作り話、聞かせてくれないか。湖主ハルでなくても、お前は山護美影の母親。美影は、ソウヤと、お前の娘だろう?」
 
にたりと笑い、巫女は枯れた腕を繰り出し、畳の上をゆっくりと這い進む。そして、
 
「山護美代は、おらとおんなじで、騙されて山に縛りつけられたんだ」
「騙された?」
「本当なら、美代の先代で、山護は役目を終えるはずだった。だども、湖主ハルが消えて、それを年寄りどもは、山の祟りだと言ってな……美代は優しい人間だ。山護を引き受けると言った。民話みてぇに、いつかハルは戻ってくるかもしれねぇ……そんなことはねえのに」
「……湖主ハルは、既に死んでいた?」
「あの年の、山騒祭の間にな……よその土地からきたやつらに汚されて、山に捨てられた……見つかったのは、山騒祭が終わったあと。親兄弟に見せられるような状態じゃねがった……年寄りどもは全部知ってたんだ、ハルになにが起きたのか。んでも本当のことを隠した。山護は必要だっていう理由を作るためにな」
「お前は巫女として、九十九山で起きた全てを知っていたんだな……山護美代に話したのか?」
「話せるわけがねぇ……美代は、孤独であることすら幸福だと思って生きる、山護である自分に誇りを持って生きる、そんな人間だ……真実なんか、知らねぇほうがいい」
 
巫女は朱袴の裾を尾のように引き摺りながら、春の間へ。這うたびに黒が畳に移ったが、そこから新たな零念が生まれる様子はなく、久遠は秋の間に立ったまま、巫女に言葉を投げた。
 
「万が一、あの写真を美影が見た時に備え、お前達は口裏を合わせておくことにしたんだな?」
「美影も、真実なんか知らねぇほうがいい……山に捨てられた女が産んだ子どもより、行方知れずの旧家のお嬢さんの娘であるほうがマシだ……まあ、あんな話を作る必要もねがったな……美影は、美代を信じて育った……あの娘にとっての真実は、山護美代の孫。どっかがら引き取られ、親の顔はしらねぇ……可哀そうか? いや、それでいがったんだ。血は繋がってなくても、作り話であっても、美代との絆があれば、それでいい。そのほうがいいんだ」
 
久遠を振り返った巫女。久遠に向けられた目。ぼろりとひとつ落ち、粉々に。それでも巫女は微かに笑い、再び腕を動かし、畳を這う。
 
久遠は倒れたままの美影を振り返った。その両瞼はぴたりと閉じ、開く気配を見せない。巫女の言葉は、美影の中にも流れ込んでいるのだろうか。僅かな可能性を描きながらも、久遠は口を開いた。
 
「真実を知らなくてもいい……ならなぜ、山護美影を呼んだ?」
「呼んだ覚えはねぇ……ずっと、忘れようとしてたんだ」
「忘れようと、日々美影のことを思った……結果お前は、あいつを山に引き寄せた」
「……めんどうなもんだな、人間の気持ちってやつは」
「会いたかったんだろう?」
「さあ……ただ」
「……ただ?」
「どうにか、ここを出られねえもんかってな」
「湖野に、帰りたかったのか?」
「どこでもいい。ここじゃねぇなら、どこでも……なんで宿災なんかに生まれた……」
「自分が宿災だということは、誰に?」
「おめえの親父だ。おらがここさきて、すぐにな……待ってたんだろう。厄介者が捨てられるのを」
「そうじゃない。宿災は他の人間よりも自然に近い。そういう存在が、この世界に必要だった……お前は、必要とされたんだ」
「いらねぇから捨てられた」
「違う。この空間には、確実にお前が必要だった」
「そう聞かされだとしても、納得して、喜んでくるわけがねぇ……」
 
言って巫女は、ぐしゃりと畳に伏した。久遠はその傍らへと急ぐ。
 
「おめぇは美影を連れて、湖野さ帰れ……もうすぐ、屋敷の結界は消える。もう、もたねぇ」
「もたない……まさか、災厄を」」
「巫女でありつづけるのは、つれぇ……心が壊れた人間はな、災厄とは一緒にいられねぇんだ……通じるってのは、信じるってことだ……ソウヤも美代も死んだ。もう信じられるもんはいねぇ」
「いる。山護美影は、まだ生きている。本当のことを、真実を……あいつはきっと、お前を信じる。お前も、あいつのことなら信じられるはずだ」
 
巫女は僅かに顔を久遠に向け、笑った。残ったひとつの目からは涙。
 
「美影は、おら達が作った嘘を信じてくれたらいい……おらが、湖主ハル……誰に言うこともねぇと思いながら、美代とトシと一緒に考えた。美代もトシも真面目な人間だ。だども、一緒に作り話を、ああすっか、こうすっかって……新しい民話でも作ってるみてぇだった……美代は石寄って男にも、最後まで真実を語らねがった。トシは、美代が死んでからも、秘密と嘘を守り続けた……たいしたおなごらだ……もっと、話してみたがった」
 
弱々しく笑った巫女。残った目は、涙とともに零れ、砕けた。それでも巫女は更に、指を前に伸ばす。ぼとり。指がもげ落ち、塵になる。一本、また一本。
 
久遠は、その姿から目を逸らさなかった。巫女の体が朽ち果てるのは、そう遠い未来ではない。その前に、本音を。
 
「お前は、お前を巫女に据えた奴らを憎みながらも、つとめを全うしようとした。だからこそ、子を宿した自分が許せなかったんだろう? 自分は育てられないとわかっていながら、ソウヤと身を交えたことも……一度連れ帰った山護美影を手放したのは、自分に対する罰だ。さっきのお前の態度も……あいつに偽りを伝え、憎まれ役になることで、自分の気持ちにけりをつけた。美影への思いを断ち切ろうとした。だが、それで」
「そっくりだな、その物言いが」
 
久遠の音を断絶し、巫女は笑う。
 
「親父そっくりだ。声も、口調も、考え方も……あの男は、くるたんびに、おらを励まそうとしたよ。んでもな、なんにもわがってねぇ……こんなところさ閉じ込められた者の気持ちが、おめらにわがってたまるか!」
「ああ、わからない。自らを滅しようという気持ちもな。お前は穢れを喰らうことで自ら滅するつもりだった。大量に零念を宿せば、災厄は拒むはずだ。自らの力をもって零念を滅する。つまり、災厄を使った自死だ。違うか? そもそもなぜ、大量の穢れがここに? なぜ、つくも神と山に棲むもの達は穢れたんだ?」
「つくも神……あれは、神でもなんでもねぇ。穢れを運ぶために、ここさきてたんだ」
「穢れを運ぶ?」
「あいつらは穢れを置いて町さ戻る。残った穢れを祓うのが巫女の、宿災のつとめ。だども、それを祓い切れねがった。それどごろか、おらが穢れを垂れ流してしまった……つまり、おら自身が穢れそのものなんだよ。だがら、祓うのは、祓われるのは当たり前だ」
 
久遠は美影を背負い、巫女のもとへ。目を失い、崩れゆく顔を覗き込む。巫女の唇はとうに膨らみを失い、黒い隙間を宿した空間のみが存在している。その暗い穴が、微かに動いた。
 
「おめぇの親父は、宿災と混ざり者を救いてぇと言ってた。その術を見つけてぇと……人が背負うには、酷なさだめだと……そんな術を、早く見つけてくれればいがった」
「他には、何か?」
「おらが心を乱せば、山神の庭は長い眠りにつく。だがら、そうならねぇように生きろと……だどもおらは……そのほうがいい……そう思った」
「眠り……眠りと言ったのか?」
「ああ……したらば、しばらぐ巫女もいらねぇべ。美影や、他のもんが山に縛られる心配もねぇ」
「それが、お前の願いなんだな?」
 
ああ。そう聞こえた後、巫女の顔は崩れ、人の輪郭を失った。
 
 
会いてがった
会わねぇでおこうと思えば
ますます
 
 
指を失った巫女の手が、美影に伸びる。久遠は膝を折り、巫女の手に美影の手を当てた。
 
「美影は真実を知りたがっている。真実を知るためにここにきた。石は誰のものなのか、災厄は誰のもとからやってきたのか」
 
 
それならソウヤと言え
髪の色も
身の丈も
ソウヤにそっくりだ……
 
 
久遠は美影を畳に寝かせ、首に巻きついたチェーンから、水色の石をちぎりとった。チェーンを巡った衝撃に、美影は反応。その瞼が薄っすらと開き始める。完全に覚醒する前に、細い体は風に乗った。体は宙を移動し始め、一瞬、確かに開いた目が久遠に向けられる。口元が動く。待って――そう聞こえた音は強風に裂かれ、美影の体は宙を舞って門を超えた。
 
 
本当に
おめえの災厄は聞き分けがいい
よぐよぐ考えれば
おらも独りではねがった……
災厄と
ずっと一緒だった
ひとりではねがったのに
 
 
「自分を責めるな。お前は人間だ。孤独を感じて、他人に愛情を求めてなにが悪い。災厄は既にお前を離れた。もういいんだ……巫女、最後にひとつ、教えてくれるか?」
 
とうに動きを失くした巫女に寄り添い、久遠は最後の問いを静かに渡した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?