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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・参4

 部屋の窓から見える空は、刻一刻と約束の時の色に近づいている。維知香に宿る災厄は、ざわめきを止めない。自分の深部で、一体何が起こっているのだろう。

 まだかしら
 まだとうまはこないの?
 はやく
 はやく
 はやく

 維知香の拍動は、災厄の高ぶりに合わせて加速。これはまるで、恋のよう。深遠に会いに行く時、こんな風に心臓が弾む。

 自分を高ぶらせている感情は自分のものではない、と維知香は自覚していた。災厄とともに生きているとはいえ、感情は、それぞれ別にある。

 自分が、あの白い輪郭の持ち主に抱いているのは、教えを請いたいという切実な願い。あの人は、深遠よりも宿災に近い場所にいる。そして自分よりも、深遠に近い場所にいる。未知であった【何か】を知りたい。

 いちかも
 はやくとうまにあいたいの?

「ええ、会いたいわ。貴方はどうして、そんなにあの人に会いたいの?」

 とうまのなかは
 あったかい
 たくさんのなかまがいて
 とてもあったかいの

「中? どういう意味? 私の中にいるのに、あの人の中がわかるの?」

 きた
 とうまがきた

 維知香の問いたい気持ちは、災厄の歓喜に負ける。高鳴る鼓動。窓の外、足場のない空中に、待ち人は現れた。途端、維知香の右手は、そこに伸びそうになる。

「落ち着いて下さい。今日は、維知香様と、お話しをしに来たのですよ」

 穏やかな響きは抵抗なく維知香の中に染み渡り、災厄のざわめきを静めた。灯馬を求めそうになっていた右手から力が抜け、維知香はそれを左手で覆った。手の平の中心に熱感。

「維知香様、大丈夫ですか?」
「ええ」
「災厄は、落ち着きましたよね?」
「はい。ああ、何かしら、こんなこと初めてで……今も、祓いを行おうとしていないのに手の平が……何が起きているのか、とても、不思議な感じです。さっきも、貴方の中はあったかいとか、仲間がいるとか、不思議な話をしていたし……ああ、ごめんなさい。どうぞ中へ。それとも、外の方が良いかしら?」
「せっかくなので、外へ。維知香様、履物をとりに参りましょう」
「ここにあるわ。いつでもここから抜け出せるように、机の下に置いてあるの」

 維知香の答えに灯馬は刹那驚きの表情を見せ、すぐに笑みを返した。

「今宵の風は元気があって散歩向きです。さあ、参りましょうか」

 灯馬の白い手が伸びる。維知香は迷いなく、その手に触れた。温かくもなく、冷たくもない。触れているという感覚も、気を抜いたらなくなってしまいそう。

 維知香は灯馬の髪を見た。白銀色の毛先からなぞり、白い顔に辿り着く。そして藍色の目と、視線がぶつかった。灯馬の瞳は、一瞬色を変えたように見えた。

「そうだわ、私あの時、貴方と目が合って、とても体が軽くなった……まるで宙に浮かんでいるような感じで」
「それは、こんな感じでしょうか?」

 維知香が窓枠から屋根に足をかけると同時に、体は風に運ばれ上空へ。思わず灯馬の体にしがみつく。存在は、確かにそこにある。そして、笑顔も。

「怖くはありませんか?」
「ええ、平気」

 胸の前に維知香を抱え、灯馬は宙を滑るように移動する。維知香は、眼下に流れる景色ではなく、薄暮となった空に顔を向けた。

「空に溶け込んでしまいそう……あの時もこんな風に、貴方が私を抱いてくれていたのね。そして私の災厄も、貴方が守ってくれた……そういうこと、ですね?」
「守る、とは、少々おおげさかもしれませんね。私には、特技がありましてね。他者に宿る災厄と、同調できるんです」
「同調?」
「ええ。あの時、維知香様の災厄は、ただの事象に戻ろうとしていたのです。貴方の体を離れ、あるがままの姿に戻ろうと……あの場でそれが成されることの意味は、ご存じですね?」

 頷き、灯馬の目を見据え、維知香は言葉の続きを待つ。


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