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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱3

 木枠にはめられた曇りガラスが軽快な音を奏で、それに反応した足音が、家の奥から近づいてくる。現れたのは、藤色の着物を纏った漆黒の髪の少女。

 肩の上で揃えられた髪。まっすぐな前髪の下にあるのは、凛とした目鼻立ち。

「お帰りなさい、おじい様!」
「ただいま」
「深遠、あなたも早く入って!」
「こら、維知香(いちか)。目上の人間を呼び捨てにしてはいけないと言ってるだろう」
「目上? 深遠は、いつも私と同じ目線で話してくれるわよ」
「そういう意味ではないんだよ。お前ももう十歳だろう?」
「そうよ。深遠と同じ二けたになったわ。おじい様とも同じ。大人と一緒じゃない」
「二けたが大人というわけではないんだがな……申し訳ない深遠さん。何度言っても駄目でして」

 眉をひそめた正一に、深遠は構いませんと小さく告げ、玄関で片膝をついた。

「維知香殿、お変わりないようで、何より」
「何よりじゃないわ! 春になったら参りますって、あなた言ったわよね、覚えてる?」
「はい」
「私、てっきりあの年の春だと思っていたのよ。まったく、何年待たせるのよ!」
 きっぱりと言い放った少女。黙って頭を下げた深遠。その様子に、正一は呆れ顔でため息を吐く。
「本当に申し訳ない。生意気な年頃のようで……さあ、どうぞ上がって下さい」
「失礼いたします」

 深遠は正一に続いて屋敷に上がり、草履をたたきの隅に寄せる。維知香と呼ばれた少女は、身をかがめた深遠に囁いた。

「ねえ。あの約束、覚えている?」
「勿論」
「いつ? いつ連れてってくれるの?」

 維知香の長い睫が、二回続けてはためく。交わる二人の視線。数秒の沈黙の後、深遠は目を逸らした。

「いつ行くとしても、まずは空の機嫌をとらないとな」
「なによ、そのごまかし方。人間は空の機嫌なんてとれないわ」
「そうだったな」
「言っておくけど、私もう子どもじゃないんだから。名前だって、ちゃんと漢字で書けるようになったんだからね」
「それは素晴らしい。君の名は難しいからな。だが、心身の成熟というものは、学問の進みと同列に並べられることではないんだ」
「同じだとは思っていないわ。そうじゃないけど」
「君は、十になったばかりだろう。まだその時ではない」
「年は関係ない。とっくに祓(はら)いは覚えたし、意思も通じているわ」
「先を焦らずとも良いと言っている」
「焦ってなんかない!」
「後で話そう。まずは挨拶を済ませたい」

 立ち上がり、深遠は庭に沿った廊下を進む。その横に、維知香はぴたりと添う。深遠は静かに、維知香に顔を向けた。

 以前あった時は、七つ。三年経ち、背は伸び、顔から幼児の雰囲気は消えた。しかし唇をきつく結び、わずかに目を潤ませる維知香の姿は、拗ねた子どもと呼んで、なんの間違いもない。

 維知香は座敷の手前で立ち止まると、堪えかねたように震えた響きを宙に放った。

「深遠は……深遠は自由にあちら側に行けるからそんなふうに言えるのよ……あなたの三年と私の三年は、ぜんぜんちがうんだから!」

 砕けた硝子のような残響を置いて、維知香は走り出す。座敷の前で待つ正一をすり抜け、長い廊下の角を曲がっていった。


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