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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・参8

 喉の渇きを覚えて、台所へ。居間に明かりがある。

「維知香、いつ帰ったの? 少し前に声をかけたんだけど、部屋にいなかったわよね?」

 母の問いに言葉を詰まらせる。少し間を置き、正直に回答を。

「お友達と、会っていたの」
「出かける時は、きちんと声をかけてね。深遠さんのところかしらと思っていたから、探しに出なかったけど……お願いね」
「はい。気をつけます……何か私に、用があったの?」
「貴方に届け物よ。玄関に置いてあるわ。鉢植えのようだけど」
「鉢植え……見てくるわ。ありがとう」

 鉢植えを贈ってくれる人間に、心当たりはない。

 維知香は玄関へと急いだ。茶色い紙に包まれたかたまりが、玄関の隅に。両手で持てる程度の、さほど大きくはない鉢。高さは膝の位置。玄関に明かりをともし、丁寧に包み紙を外した。

 枝を賑わす小さな白い花の群れ
 つややかな緑の葉

 幹に、細く折り畳んだ紙が結ばれている。

 まさか

 維知香は頭に浮かんだ可能性を確かめるべく、急いで紙を取り外した。明かりの下で折り目を解く。

 すまなかった
 君が無事で良かった
 いずれまた
 くれぐれも体に気をつけて

 愛想のない、短い文章。それを綴った人は、またあちら側へ行ってしまった。そう悟り、和らいだはずの胸の痛みが戻る。

 痛い 悲しい
 痛い 寂しい
 痛い 恋しい

 
「維知香? 何してるの、こんなところで」

 背後から菊野の声が届くも、維知香は振り返らず、じっと手紙を見つめた。

「あら、南天ね」
「南天……」
「赤い実がないと、わからないって人もいるわ。どうしたの、これ?」
「もらったの……」
「まあ、南天を贈るなんて……誰から?」
「……おばあ様の言う通り……痛い」
「え?」
「たまらなく痛いわ」

 母と約束したばかりだというのに、維知香は鉢植えを抱え、何も告げず玄関を飛び出した。

 母屋の裏。古びた小屋。鉢植えを土間に置き、板の間に座り、僅かに開けた引き戸に向かう。

「…………探しに来てよ……深遠、早く探しに来て……早く」

『 かくれんぼは、相変わらず下手だな 』

 あの春、ここに深遠が迎えに来てくれた頃は、こんな痛みを知らなかった。今は、会えない悲しみに、寂しさに、更に痛みまで。

 涙腺を制御できない。溢れる。涙が、思いが、溢れて止まらない。

 どうして
 どうして
 こんなにも

 痛いのに辛いのに、深遠を思う気持ちが止まらない。これは幸せなのか、不幸せなのか。答えの出せない問いと戦いながら、維知香はひとり、小屋に泣き声を響かせた。


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