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宿災備忘録-発:第4章1話①
昔あった話だと。雪溶けの頃、浜のほうから来た商人、山越えて行く途中で陽が暮れて、山ん中の祠の前で横になってたんだと。
うつらうつらとした頃、祠の中からおなご出はってきたんだと。おなご、身の丈三尺ほどで、祠のしめ縄から紙垂1枚抜いで顔さ貼って、すたすたと山さ入ってったんだど。商人、黙っておなごの後ろついてったんだと。
しばらくして、見事な屋敷の中さ、おなご入ってったんだと。商人も屋敷さ入ってみだっけ、広い座敷さ膳だの酒だの置いてあったんだと。誰もいねぇのにざわざわってしゃべる声して、商人、おっかなぐなって逃げだんだと。
里さ戻ったっけ、雪が残ってたはずの田んぼ、稲がふさふさ揺れて、蝉もいっぺえ鳴いてたんだと。里の人らにおなごの話したっけ、「おめさんはつくも神さんの屋敷さ勝手に入って、罰として九十九日盗られだんだ」って言われたんだと。
その山の名前、九十九山と言われでんだと。
***
高い杉が左右に立ち並ぶ、参道のような道。山中とは思えないほど足下は平たんで、ここを行け、といざなわれているかのよう。
曇天。雨が降る前のような薄暗さ。風はなく、辺りはとても静か。
美影の前を行くのは、白い着物を纏った、なにものか。身長は僅か10センチ程度。近づき過ぎれば踏み潰してしまいそうな、小さな存在。緩やかに曲線を描く体と、ほっそりとしたうなじ。腰紐にぶら下げた鈴を軽やかに鳴らしながら、どんどん進む。
久遠は美影の後ろに。時折振り返る美影に対し、久遠はその都度、自分の眉間を突いて、意思を伝えた。
迷うな
追え
目で見るな
心で感じろ
そう言われているような気がして、美影は黙って頷きを返した。
祠を抜けて、どれほど経ったのか、わからない。時を確認できるものは、全て祠の向こう側に置いてきた。随分歩いた気もするが、今のところ疲労感はない。
周りの景色は、気づけば様相を変えていた。今は、でこぼこの乾いた地面を歩いている。左右に迫っていた木立は遠のき、土手のように少し高くなった土の壁が、腕を伸ばせば届く位置にある。流れのない川の底を歩いているかのよう。
なにものかは、後方の2人を気に留める様子もなく進み続け、ある時ふと、足を速めた。静まり返っていた空間に音。それが水の音であると、美影はすぐに気づいた。水が流れ落ちる音。記憶の中にある滝の姿を思い描いた次の瞬間、その景色に近似した光景が、前方に現れた。
なにものかは滝に向かい足を速める。美影の記憶にあるように、滝の上を目指す。
滝つぼから溢れた水は、乾いていた川に流れ込み始めた。美影の足元に水が迫る。流れは靴を飲み込み、ジーンズの裾まで濡らす。
足を止めた美影の左隣に久遠が並んだ。気にするな、目を逸らすな。そんな視線を受け、美影は顔を前に。
なにものかは滝の上に辿り着いて、ピタリと止まった。これから起こることを思って、美影の鼓動は加速。
くるり。なにものかは、美影と久遠を振り返った。初めて見る、その顔。額に貼られた紙垂が、するりと剥がれた。現れたのは、真っ白な、のっぺらぼう。悲鳴を上げそうになった美影の口を久遠の手が素早く塞ぐ。
剥がれた紙垂は淵に落ち、途端、滝つぼの中心から波紋が広がる。それは次々に生まれ、3秒と待たずに淵は渦を巻き始めた。
渦は瞬く間に激流と化した。ことの急変に戸惑う美影の前で、なにものかは突如、滝つぼに身を投じた。思わず目を閉じた美影。その体が持ち上げられる。美影の体は久遠の胸の前に抱き抱えられている。
久遠の視線の先には渦巻く滝つぼ。足は駆け出し、止まる気配はない。このまま久遠は滝つぼに飛び込む。確定に近い予感に、美影は両瞼を固く閉じた。
振動。跳躍。遠のく意識――
漆黒
目を開けている?
開けていないのに見えている?
ここはどこ?
冷たくもない
温かくもない
水の中?
それとも……
久遠はどこ?
私は今ひとり?
着物姿のなにものかは?
ああ、いた
違う
さっきまでの背中じゃない
あれは
あの時の
5歳の頃に見た背中
どうして……
遠ざかる
待って!
お願い待って
私も連れて行って
私も
私もそこへ行きたい!
光。目の前は白。
「……空」
呟いて、瞬き。
「大丈夫か?」
声の方向に視線を。あぐらをかいて座る、久遠の姿。
背の低い草。樹々に囲まれた草原。そこに寝そべった自分を認識し、美影はゆっくりと起き上がった。
「大丈夫か?」
2度目の問いに、美影は頷きを。
「迷わずに入りこめたようだ。ここから、どう動くか……」
周囲を眺めながら、久遠は立ち上がった。靴、ジーンズの裾、両方とも、明らかに水分を含んでいる。しかし服は濡れていない。それは美影も同じだった。
「滝つぼに飛び込まなかった?」
「飛び込んだ」
「でも濡れてない」
「あれは、滝つぼであって、そうではない。空間と空間を繋ぐ道……結界で作られたトンネルのようなもの、と言えば、理解できるか?」
「トンネル……そこを通って、向こう側、にきた」
「そうだ。向こうにいた時は向こう側、今は、こちら側。ここにいることが、今の現実だ」
「……もうなにが現実で、なにがそうじゃないのか、わからない」
「これまでのこと、全てが現実だ。そしてこれからも現実で、真実だ」
小さく、しかしはっきりと。久遠は言って、少し美影と距離を置く。その視線は周囲の景色に。美影も立ち上がり、視線を飛ばした。目が届く範囲に、人工物は確認できない。
空は薄曇り。風は凪。草原を囲む樹々の枝葉は沈黙。
「ねえ、ここ……なんか、おかしい気がする」
「わかるか?」
虫の声、鳥の声、羽ばたき。風の呼吸さえも感じない。不気味なほどの静けさ。美影の耳は、音を求めて鋭敏に。自分の鼓動が、一番耳につく。
立ち尽くす美影の隣。地面に腰を下ろした久遠。あぐらをかいて、口を開く。
「零念達の気配もない。山に棲むもの達も……しばらくここで待つ。すぐに何か始まるだろう。俺達は、本来ここにいてはならない存在だ。主が放っておくはずがない」
「何かって、何?」
「わからない」
率直な問いに返る、率直な答え。少し前の美影なら、苛立ちに顔を歪ませていたかもしれない。しかし今は、その答えが全てなのだと理解できた。久遠がわからないのなら、自分にわかるわけもない。
美影は久遠の対面に、少し間をとって腰を下ろした。膝を抱え、小さく息を吐く。残響は瞬く間に去り、空間に他の音が流れ込む気配はなく、耳元を掠める風さえ、やはり感じない。
暑くもない。寒くもない。乾燥しているわけでもなく、しつこい湿気が蔓延っているわけでもない。
「……ないないづくしだよ」
「なんだ?」
なにげなく零した美影の呟きを、久遠が拾う。その意外な行動に、美影は刹那呼吸を忘れた。久遠の視線は、美影の顔に留まったまま動かない。次の言葉を待っている、という意味なのだろうか。
「……何が始まるかわかんない。いつ始まるかわかんない。音もない。暑くもないし、寒くもない。なにもない……って思った」
「俺も、同じことを思っていた」
静かに言葉を切り、久遠は地面に背中をつけた。
久遠の視線が向かった先に、美影は顔を動かした。視界を横切る鳥は現れず、静か過ぎる空間に自分の呼吸音が響きそうで、無理に言葉を作り出す。
「湖野の民話、子どもの頃から何度も読んだし耳にしていたけど、それが現実だなんて……山神の庭って呼ばれているところにきているのに、実感なんて全然湧かない」
「今ここにいるという感覚は、自分だけのものだからな。自分がそう信じなければ、作り物と同じかもしれない」
「え?」
「本来の居場所に戻った時に、ここでのことをどう記憶にとどめておくのか……現実ではなかったとお前が思えば、作り物と同じ位置づけになっていくだろう……それも悪くない。お前の考え方次第だ」
「そんなこと言われたら、現実だって認識するしかないみたいに聞こえるけど」
「そう聞こえたか?」
「聞こえた」
「なら、そういうことになる」
言って久遠は目を閉じた。
――私が信じれば現実
疑えば作り物
今の、この状況。とても信じられない。ここにくるまでのことも。しかし確実に、自分は今、ここにいる。
真実の境界線は、どこだ
出会って間もなく久遠に言われた言葉が、美影の中に甦る。今、その境界線上にいるのかもしれない。久遠には、その境界線が見えているのだろうか。
――聞いてみる?
ううん
まだ
まだ聞かない
違う
聞けない
それはきっと
私が見つけなきゃいけないものだから
「お前には、なにが見えた?」
突如ぶつけられた問い。驚きを隠さず、美影は目を閉じたままの久遠に視線を刺す。
「ここに辿り着く途中、なにか見なかったか?」
「あ……えっと、着物姿の背中。でも、滝つぼに飛び込むまで見ていたのとは違う」
「違う?」
「うん……5歳の時に見たほう、だと思う」
「……俺は闇の中に、男の背中を見た」
久遠は沈黙。ふたりとも、別々のものを追って、ここに辿り着いた。それは一体を意味しているのか。自問を始めた美影。ふと浮かび上がったのは、鷹丸の言葉。
アンタがわかんねぇみたいに
久遠だってわかんねぇんだよ
久遠も、なにを意味するのか、わかっていない。だから答えを求めようとしている。自分とともに。
――そういうことなの?
美影が自分の気づきに問いを投げたとほぼ同時、静寂を保っていた空間に、憂いを秘めた旋律が走った。
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