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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・壱6

 頭を垂れ、戻し、音もたてぬ身のこなしで立ち上がり、深遠は廊下へ。何か言いかけた桜子の横を抜け、振り返らずに進む。

 主と崇める人々の温もりから離れ、玄関へ。草履を履き、母屋の裏へと向かう。目指すのは、鬱蒼とした木立に守られるように佇む小屋。

 寂の気配に沈んだそこは、かつて庭師が住まいとしていた場所。維知香がお気に入りとしていることを、深遠のみが知っている。

 手を差し入れるに丁度良い隙間を作った木戸。それを軽く叩き、反応を待つ。十秒ほど待ったが、反応はない。

「入ってもいいか?」

 問いかけるにしては静かな響き。しかし答えはすぐに返った。

「どうぞ、ご自由に」
「失礼する」

 滑りの悪くなった木戸を開け、深遠は小屋の中に光を導いた。光の入り込んだ先に、維知香の姿。

 維知香は、土間を上がった板の間に座し、戸口に体の正面を向けている。まるで誰かが迎えに来ると予見していたような有り様。

「戸が僅かに開いていた。かくれんぼは、相変わらず下手だな」
「完全に閉めたら真っ暗なの。ほら、あそこの窓ガラス。板でふさがれているでしょう」
「割れたのか?」
「去年の台風で、小屋の横の木が折れて、ぶつかったの」
「その時も、ここに?」
「ううん、そうなる少し前に母屋に戻った。とても風がさわがしくて、戻れって言われているみたいで……」
「そうか……怪我がなくて良かった」

 深遠は言い終えて、土間に足を踏み入れる。途端、維知香は腰を持ち上げ、深遠の元に駆け寄り、黒の作務衣に顔を埋めた。

 言葉なく受け止めた深遠。維知香の、か細い腕が背中に周る。細かく震える肩。深遠は静かに身を離そうと試みるも、維知香は腕に力を込め抵抗する。そしてますます顔を埋め、嗚咽を深遠の体に響かせた。

「すまなかった……急いだつもりなんだが、やはりこちら側は、時の流れが速い」
「……今度はいつまで? いつまで、こっちにいられるの?」
「入梅の頃までは、いるつもりだ……さあ皆が心配している。行こう」
「いや! まだここにいる」
「せっかくの着物が汚れてしまう……よく似合っている」

 ぴたりと静に落ちた維知香。深遠の胸から、ゆっくりと顔を離し、鼻をすすり上げる。深遠は折り目のついた手拭いを渡し、ひとり表へ。

 しばし遅れて、顔から水滴を消した維知香が、光のもとに身を投じた。維知香は空を仰いだ姿勢で、大きく息を吸い込み、長く細く吐き出す。まるで大気の力を取り込み、自らに溜まった何かを吐き出しているかのよう。

 切り替えの儀式なのか、息を吐き終えた維知香の顔は、心持ち明るく見えた。

「そろそろ青空が見えるわ……良い雨だったわね」
「そうだな……さあ行こう」
「待って……ねえ、この着物、本当に、にあっているかしら?」
「嘘をつく理由はない」

 交わる二人の視線。維知香の目元は綻びを見せ、深遠もそれに答える。着物の裾を跳ね上げないよう、維知香はしとやかに歩を進め、深遠の手をとった。


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