宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 秋・弐5
自分の左を手で示した菊野。深遠は戸惑いを覚えたが、会釈を見せ、菊野の隣に場を移した。
「あら、本当に背が高いのねえ……ふたりとも座っているのに、まるで大人と子どもみたいだわ。私が小さくなったのかしら……深遠さんは、どちらに似ているの?」
「どちら、と申されますと?」
「ああ、ごめんなさい。ご両親です。長身は、お父様ゆずりなのか、お母様ゆずりなのか、それとも、お二人とも背が高くて?」
「おそらく、母親ではないかと」
「おそらく?」
「詳細は知らないのです。ただ、母方には異国の民の血が流れていると……私の記憶に母の姿は刻まれておりませんが、父は、この国の標準的な背格好であったと記憶しております」
「そうなの……ごめんなさいね、突然。貴方の生い立ちについて興味があったものだから……貴方は、夫になることを、家族を持つことを躊躇われていると、主人から聞いたの。それは生い立ちに、関係があるのではと思って」
「そうかもしれませんが……私が愚かであることが、一番の原因であると思います」
「嫌だわ、深遠さん。愚かという言葉の意味をご存知? 貴方は律儀で思慮深くて、私の知る中で一、二を争う人格者だわ。私ね、人を見る目には自信があるのよ。どうかその自信を、失わせないでちょうだい」
にこやかなようで、真剣に。それは初めて見る菊野の顔であった。その凛とした佇まいは、どこか維知香を思わせる。
深遠は姿勢を正し、頭を垂れた。人格者などと形容され、気恥ずかしさが前面に出てきてしまった。垂れた頭を戻す前に、表情を無に近づける。菊野は深遠の顔が正面に向くのを待って、音を再開させた。
「幼い頃味わった淋しさや孤独といったものは、そう簡単に拭えるものではありませんよね……私が申し上げることではないのだけれど、ご両親にも事情があったのだと思います。決して、貴方を愛していなかったわけではないと思います。子を愛さない親はいません。それは私自身が親となって得た確信です……
一方で、不安であるという気持ちも、理解できます。人間誰しも、夫や妻、親、そういった立場になる練習をしながら育ったわけではありません。記憶の中から手探りで見つけなければならないものもあります。もし見つけられないのであれば、存分にお手伝いいたしますよ。私の持てる知識、経験、それを、貴方に使って欲しいんです」
音を止め、菊野は真っ直ぐに深遠を見据える。その目もやはり維知香のそれに似て、深遠は思わず息を呑んだ。しかしあえて、菊野の視線を避けずに口を開く。
「菊野様のお気持ち、胸に刻みます……ありがとうございます」
「それは、どう受け止めたら良いのかしら?」
「ああ……いや、なんと申し上げれば良いのか……」
「どうなさったの? 話してくれて、よろしいんですのよ」
「……本人ではなく、菊野様に先にお伝えして良い内容なのかどうか、判断し兼ねております」
深遠が言い終えるなり、菊野は何かに気づいたといった面持ちで、目を大きく見開く。
「……そう、そうなの、そういうことなのね! 嫌だわ、私ったら……余計なお世話だったわね。恥ずかしいわ、本当に」
「いえ、私が未熟であるがゆえのこと……ご心労をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「とんでもないわ。ああ、駄目ね、維知香に知られたら叱られるわ。勝手に、こんな真似を……深遠さん。貴方にも失礼なことを。本当にごめんなさい。だけど安心しました。主人の心残りは、二人の行く末を見られないことでしたから」
細く、長く息を吐き、菊野は天を仰ぐ。まるで亡き夫に心の内を届けているかのよう。
祖父である正一同様、菊野も祖母として、全身全霊で維知香を愛している。それが目に見えるようで、深遠は菊野の姿を見つめ続けた。
しばし虫の声を主役とした後、菊野は持参した包みを開いた。
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