見出し画像

宿災備忘録-発:第3章5話③

「ひとつ目は、石」
「え?」
「ふたつ目は、祠」
 
久遠の視線につられ、美影も祠に顔を向ける。
 
「みっつ目は、九十九山」
 
ぐるりと周囲を見渡す。
 
「最後が、湖野」
 
久遠の視線は美影へ。美影は黙ったまま、言葉の続きを待った。
 
「石を隠され、石のことを忘れた。石のことを忘れて、祠のことを忘れた。祠のことを忘れたことで、結界がひとつ、閉じた」
「結界が閉じた?」
 
思わず口にした美影。久遠は僅かに頷き、言葉を繋げた。
 
「山護美代が亡くなったのは、お前が高校生になった年だったな」
「うん」
「あの家を離れて、湖野の中心部に移り、山から離れた。高校を卒業して、湖野から離れた。ふたつ目の結界が閉じた」
 
また結界。思って美影は、灯馬を見た。少々お待ちください、とでも言うかのように、灯馬は微笑み、久遠を見るよう促した。
 
「結界というのは、隣り合わせの空間が互いに干渉し過ぎないよう張り巡らされたもの。この世界の至る所にあるものだ。通り抜け、別の空間に辿り着けるものは、限られたひと握りの存在のみ」
 
聞いて、そうなんですね、と理解できるはずもなく、美影は当然、困惑の色を浮かべた。久遠は話し続ける。
 
「お前に施された結界については、時を見て話す。今は全ての結界が開いている状態。零念が見えるまでに災厄が活性化したのも、その影響だろう」
 
言い終えて、久遠は美影をじっと見据えた。わかったか、とでも言いたいのだろうか。美影は、縦に一度、横にも一度首を振って、息を吐いた。
 
「ぜんっぜん、わかんない」
「これからわかる」
 
雨が少し弱くなった。代わって風が存在感を強めた。
 
「雨だから蝉の声もしない。肌寒し、夏が終わったみたい」
「ここ2日間、雨模様でしたからね」
 
灯馬の言葉に、美影は首を捻った。昨日は晴れていたはず。東京を出発した時、新幹線を降りてから、湖野につくまでの間、山護の家にいた時、夜神楽の時、記憶にある場面では、誰も傘をさしていない。雨が降ったのは、深夜になってから。
 
「2日間? どういうこと?」
「貴方は香織さんの家を出て、祠を通って、向こう側にいった。久遠が見つけて、こちら側へ戻るまで、時間は貴方の感覚よりもずっと早く進んでいたんです」
 
意味がわからない。
 
動きを止めた美影。灯馬に刺さったままの視線。視界の端で、何かが動いた。
 
「これを」
 
久遠が美影に何かを差し出してる。皮の表紙の手帳。
 
「この手帳、おじさんの手帳と同じ」
「石寄会長のものだ」
「なんで」
 
貴方が、と問われる前に、久遠は素早くページをめくった。厚い手帳の、ほぼ真ん中で、手を止める。そこにあるものに、美影は息を奪われた。
 
ページに貼り付けられた、1枚の写真。写っているのは、自分の首にぶら下がっている石に間違いない。それをしっかりと確認した後、美影は続くページに視線を走らせた。
 
 
***
 
美代さんは言った。孫が祠の向こう側に行ったかもしれないと。あの石は山神の庭にあった物ではないかと。調べれば、この世に存在して当たり前の物だとわかるかもしれないが、やめておこう。巫女の涙石かもしれない。そんなことを考えながら石を見ていると、なんとも心が騒がしくなる。
 
美代さんから石を託された。孫がこれを持っていると、また山神の庭に行こうとするかもしれない。あの子の母親のように、時間の流れの違う場所へとらわれてしまうかもしれない。それは恐ろしい、山にとらわれるよりも、ずっと難儀なことだと言った。自分が死んだら、孫をあの山から離してほしい、いずれ湖野から離してほしいとも言った。そして、孫の身に何事も起こらず成人を迎えたなら、その時は石渡して欲しいと。
 
ネックレスに加工して渡そうと思っている。あの石は美影ちゃんの守りであると、私は信じている。石を美影ちゃんに渡したのが誰なのかわからないが、悪意はなかったと思っている。美代さんも同じ気持ちだろう。しかし美影ちゃんを守るためには、石がそばにあってはならないのだろう。万が一にも災いとならないようにとの気持ちであるのだと理解している。あの子には微塵の災いも降りかかってはならない。美代さんの、大切な孫、大切な家族なのだから。
 
***
 
達筆な文字は、明らかに石寄の筆跡。美影は再び写真に視線を戻した。
 
手帳に視線を走らせる美影の隣。再び雨足を強めた空に視線を飛ばした久遠。大地を叩く雨粒の力に呼応するように、美影の発する気配は騒がしくなる。それを感じ、ただ、静かに待つ。
 
美影の顔が、僅かに手帳と距離をとる。その瞬間を逃さず、久遠は口を開いた。
 
「さっき灯馬が言ったことの意味が、わかったか?」
 
美影は小さく頷いた。それを確認し、久遠は言葉を繋ぐ。
 
「祠を通って向こう側へ……時間の流れの違う場所へ、お前は行っていた。お前の知らない雨模様の2日間が、こちら側には存在していたんだ」
 
美影は頷きながら、再び手帳に視線を落とした。
 
あの子の母親のように
時間の流れの違う場所へ
 
石寄の書いた文章は、祖母が放った言葉。
 
「ばあちゃんは、私の母親を知ってた。どういう存在なのかも知ってた……山神の庭は、本当にある」
 
言って、長い息を吐く。昔話ではなかった。ただの伝承ではなかった。気が遠くなる。自身に起きた事実を受け入れるのに精一杯。頭が回らない。
 
「美影」
 
いつの間にか、美影の前に、灯馬が立っていた。手は伸びない。足も動かない。
 
「いいんです、自分のことだけを考えて。ですが少し、急でしたね。情報が一気に入り過ぎたようです」
「いい、いいの。やっと繋がり始めたんだから、もっと知りたいくらい。もっと、もっと教えてほしい」
「そうですか……久遠」
 
承諾を得るように、灯馬は久遠を呼んだ。久遠は一度だけ頷きを見せた。
 
「では確認をかねて、お話ししましょう……今、私達が存在している空間とは別の空間が、この世にはたくさんあります。空間と空間を区切っているのが、結界。結界の向こう側にある場所を、私達は、あちら側と呼んでいます。湖野では山神の庭と呼ばれ、言い伝えられてきました。そこは、こちらとは時間の流れが異なります。ゆっくりと時が流れています。それは貴方自身の体験から、もう理解できていますね?」
「うん」
「湖野は町全体が結界に囲まれています。それはなぜか。なんとなく予想がつきませんか?」
「山人が山から出てこないように結界をはったとか、そういう内容の民話はあるけど、それが現実だってこと?」
「民話の内容が現実と完全一致するかどうかは不確かですが、結界の隙間のようなもの、いわゆる、空間の繋ぎ目というのは結構あるものなんです。意識せずに異空間に入り込むことも稀に。神隠しなんて言葉もありますよね。湖野では、あの祠が異空間への入り口となっている。普段は人間が入り込んでしまわないよう封印されているんです。正確にいうと、あちら側から入り込んでしまわないように、でしょうか」
 
音を止め、灯馬は視線を久遠に移した。
 
視線を受け取った久遠。美影の前に手を伸ばす。手帳を渡した美影。久遠の手によって、ページがめくられる。手帳の終わりの少し手前で手を止めた。
 
美影の目の前。示されたページ。封をするように、黒い紙で隠されている。
 
「めくっていい」
 
頷き、美影は黒い紙をめくった。隠されたページに貼りつけられているのは、向かって右半分が破り取られた写真。緩く束ねた黒髪を肩に垂らし、椅子に腰かける女。女の腕に抱えられているのは、両目を閉じた赤ん坊。髪の毛は赤に近い茶色。女の左肩には、誰かの指先が乗っている。
 
美影の中に、鷹丸に見せられた写真が浮かび上がる。九十九山で見つかった遺体が所持していた、祖母が写った写真。それと、今目の前にある写真が、美影の頭の中で1枚の写真となった。
 
 
――ばあちゃんと私と
  私の、お母さん
 
 
***
 
美代さんから写真を預かった。非常に困惑していた。あんな美代さんは初めて見た。そして言った。本来処分すべき物であるが捨てられない。これは、美影は親に捨てられたわけではないという唯一の証拠なのだと。私がこれまで受け取った数々の書類より、この写真は重い。美影ちゃんにとって、確かな出自の記録なのだ。
 
乳児院から引き取られた子として育てると言っていたが、いずれは話してやりたいのだろう。望まれて生まれたのだと伝えてあげたいのだろう。しかし両親の存在を伝えれば、あの子は苦しむだろう。美代さんは、私が考える以上に多くのことを考え続けるだろう。
 
この写真を託されたことで、私はやっと美代さんに認められたのかもしれない。私も苦悩を共有していこう。不謹慎ではあるが、美影ちゃんに感謝したい。あの子の存在があって、やっと美代さんは他人に苦しい胸の内を見せることができたのだから。それが私であることを、とても嬉しく思う。
 
***
 
「この人が、私のお母さん」
 
ぽつりと零し、手帳に落していた視線を空に。長く息を吐き出し、言葉を繋げる。
 
「おじさんから手帳を渡されて、この写真を見て、鷹丸さんが持っていたあの写真を見て、貴方達は私の両親がどういう人達なのか、気づいたんだね」
「ああ……だが父親については確証がないと、鷹丸さんも言っていただろう? 正解は、お前の中にあると思っていた」
「うん……あの人が、きっとそうなんだと思う。あの遺体が、お父さん。この写真の人が、お母さん。お父さんは死んじゃって、お母さんは、祠の向こう側にいる……」
 
微かに笑みを浮かべ、美影は顔を正面に戻した。手帳を閉じ、久遠に差し出す。
 
「ありがとう。教えてくれて」
 
手帳は久遠の手に。しばしの空白。そこに滑り込んだ雨音。いざなわれ、美影の顔は空へ。吹き込んだ風に流された数滴が顔を打つ。ほんの僅かな水分が、妙に冷たく、心地良い。
 
額に手を当て、乾き切らない前髪を払った美影。頬に手を。熱い。熱を振り払うように、火照った目元を瞬く。その姿を捉えながら、灯馬が音を紡いだ。
 
「自分で出した答えに、納得していますか?」
「うん……でも」
「でも?」
「絶対ウソ、とか、ありえないそんなのって、自分で出した答えを疑うと思ってた……でも違った。意外と、こう、すんなり受け入れた感じ」
 
美影は両手で膝を抱えた。わからない、という苛立ちからの解放。力の抜けた体。放心気味の表情。
 
「本当に納得できたのか?」
 
雨音に重なる、久遠の声。美影は僅かに視線を動かし、大きく頭を縦に振った。
 
「自分自身2回も行方不明になっているし、その写真も見ちゃったし。鷹丸さんから聞いた話だと、その女の人って行方不明になって、すごく時間が経ってから戻ってきたんでしょ。でも昔のまま……それに出発する前に、いつ戻れるかわからないって言ってたし……時間の流れが異なる空間だから、ってことだよね?」
 
言って美影は、灯馬に視線を。すぐに頷きが返る。それに笑みを向け、美影は再び久遠に言葉を。
 
「助けにきてくれたってことは、私がこの祠に向かったって予想できた、ってこと?」
「ああ」
「どうして?」
「お前に施された結界が、ここに導くだろうと」
「空間の区切りとは、違うの? 私自身に、結界が?」
「ああ」
「教えて欲しいけど、まだ、その時ではない?」
「百聞より一見のほうがわかり易い……もう少し待ってくれるか?」
 
美影は了承の頷きを。
 
ここまでの出来事は、全てが百聞より一見だった。それなら、ここから先も。それに久遠には、他にも聞きたいことがある。
 
「……結界の向こう側に行ったこと、あるの?」
「ああ」
 
久遠は即答。そして繋がる、涼やかな音。
 
「5歳の時、あちら側に行った。そこに3ヶ月ほどいた。こちら側に戻った時、俺は5歳のまま。だが5歳しか年が違わなかった鷹丸さんは、20歳になっていた」
「子どもの頃からの知り合いなんだ……こっちも繋がった」
「戻る前の俺と、戻った時の俺を知っているから、あの人は俺を疑わない。俺も、あの人を疑わない」
「どうして行ったの……どうして戻ったの?」
「行くも戻るも、自分の意思じゃない」
 
音を止めた久遠。その目元。刹那浮かんだ憂い。はっきりと確認する隙を与えず、久遠はいつも通りの無表情に。これ以上は語らない。そんな意思表示に見えた。
 
美影は長い息を吐いた。ふと、自分の胸元にある石が、自発的に揺れたように思えた。それに灯馬も反応を示した。久遠も。
 
「これが、私をここに……?」
 
零した問いに、答えは返らない。しかし美影は、自らの中に答えを見つけた。またひとつ、記憶が蘇った。
 
「……これ、返しにいかないと」
「返す相手が、わかっているのですね?」
「私の記憶が正しければ、だけど……あの霧みたいなものは、これが原因なんじゃないかって」
「あの霧?」
「先生の家で会った時に見せられた、湖野の写真」
「あれと繋がりましたか……もう、ヒントは必要なさそうですね」
「今までも、結構なかったように思うけど」
「そうですね」
 
灯馬と美影。目を合わせて笑顔。美影は立ち上がり、胸元の石を強く握り締め、玉砂利を鳴らした。閉じられた祠と向かい合う。
 
雨に打たれた祠に、ぼんやりと光が射した気がした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?