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宿災備忘録-発:第3章6話
「あちら側に入る前に、災厄の解放の仕方を、教えておきたい」
祠の前で、久遠と美影は向かい合った。久遠の言葉に頷いたは良いが、美影は熱っぽさに襲われ、集中できずにいた。
合羽のボタンを全て外し、新鮮な空気を取り入れてみたものの、体に触れる清涼感は限りなく無に近い。額の汗を手で払い、大きく息を吐き出した美影。久遠は美影の異変を見逃しはしなかった。
「ただの熱じゃない。お前の中の災厄が力を高めている証拠だ。この祠に近づいたことで活気づいたんだろう……これから、ほんの少しだけ道を作る」
「道?」
「宿災は、大げさに言えば、常に零念に狙われている存在だ。身を守るために災厄の力を少し使わせてもらう。災厄の力を僅かに力を解放する。その時の、災厄の通り道だと思えばいい……両手の平を上に」
美影は抵抗なしに、久遠の言葉に従った。汗ばんだ両手の平を空へ。そこに、久遠の大きく骨ばった手の平が重なる。
「少し痛むぞ」
「うん」
返事をした直後。静電気に似た刺激が、触れ合った手の平に走った。美影が数回顔を歪めるうちに痛みは去り、久遠の手も離れた。あらわになった自分の手。変化はない。
久遠は美影との間に距離を置き、代わって灯馬が美影の前に立った。血の気のない白い手を、美影に差し伸べる。
「災厄達は貴方の中で葛藤しています。目覚めた災厄は、宿り主が自分にふさわしいかどうかを見極めるんです。貴方自身も、この数日間随分と葛藤したでしょう。その力がぶつかり合って、貴方に過剰な熱を与えている。まずはそれを解き放ちましょう。さあ、両手を前に」
「熱……今の、これがそうなの?」
「そうです。まずはそれを解放しましょう」
美影の手をとった灯馬。美影の脈動はドンっと波打った胸に呼応。顔が熱い。
――自分と災厄
互いの葛藤が生んだ熱?
そんなこと、考えもしなかった。否、考えが及ぶはずもない。もはや自分の経験や知識など役に立てようがない。そんな場所まで、自分は流されてしまった。ここから先、2人の導きなしに無事は約束されない。そんな予感が美影の中に微かな恐怖を生んだ。
「駄目です。余計なことを考えないで」
視線を交えた灯馬に頷きを。美影の両手の平に重なった灯馬の手。白く、長く、細い五指が、美影の手首を固く握った。
意外なほどの力強さに、美影の鼓動が反応を示す。血流の変化を感じ取ったのか、灯馬は一層穏やかな声を響かせた。
「ゆっくり、呼吸をしましょう。呼吸を整えながら、想像して下さい。貴方の手の平から、熱が解き放たれる様を想像するんです。どんな形でも、色でも、勿論、音でも……どのようなかたちでも構いません。貴方の想像したままを、私の手に伝えて下さい。ゆっくり、焦らずに」
熱が解き放たれる様を想像する。なんて難しさを極めた要望。なんでも良いという選択肢は、美影の体温を更に上げた。
灯馬の言葉に従い、ゆっくりと呼吸を繰り返す。触れ合っている灯馬の手の平。そこに体温は感じない。その手は細く、白く、限りなく無音に近い。穏やか過ぎて、思わず存在を疑ってしまう。灯馬はまるで、凪いだ風。
――そういうことで
いいの?
他者の有様を見つめるように、自らの深部を覗けたなら。
美影は瞼を閉じた。祠の前に立つ自分の姿を、体中を巡る熱をイメージする。その流れは、決して穏やかではない。激流に姿を似せた熱は、紅潮した頬の色を掠め取り、薄紅色に染まる。色を与えられた熱は、急勾配を流れ落ちる水の如く飛沫を上げ、腕を滑り降りる。
――イメージを灯馬に伝える
灯馬の手に
私の熱が流れ込んでいくイメージを
腕を滑り落ちた熱は手の平に流れ着き、触れ合った灯馬の手の平に伝播。
美影がそうイメージしたと同時に、灯馬の手は美影のもとを去った。手の平には熱感が残ったまま。瞼を開き、現状を確認。そこには、先程まで見えていなかったものが。
手相が描かれていただけの手の平に、小さな文字のような痣。それは、ぐるりと環を描いている。美影は占爺との一件を思い出し、全身を確認。しかし痣が浮き出ているのは、手の平のみ。
「私にできるのは、ここまでです」
頭を下げて、灯馬は一歩、美影から遠ざかる。美影は手の平に浮かんだ痣を凝視。その時、痣と思われていたものが、文字として映った。否、イメージ、念。そんな風に呼ぶのが、おそらく正解。
「お前が感じているそのままを、言葉にすればいい」
久遠がいう、感じているそのまま、とは。美影はしばし迷い、長く吐いた息でその迷いを振り払い、脳内に直接響いた音を、自分の声に変換した。
「我に宿りし理よ。そなたを疎んずる者は去った。今一度、その姿を我に見せよ。移ろう時は、待ちわびることの空しさを捨て、ただそなたと共にあろうと寄り添う。そのことに、微塵の偽り無し」
鼓膜に伝わった音は、脳に到達し、染みて、消える。途端、変化は訪れた。
体の中心
突き抜けた衝撃
おびただしい雨粒の感触
全身を駆け巡る冷気
雨粒はそれに攫われ手の平へと向かう
環を描いた痣
その中心から飛び出した紅色の輝き
それは宙に孤を描いた
これが自分の葛藤の姿
放たれる熱感
続いて飛び出したのは
おびただしい数の雪の欠片
それは孤を描く紅色を消し
解けて大地に染みる
これが災厄の葛藤の姿
訪れる清涼感
手の平の中心から
自分を火照らせていた熱が放たれていく
2つの葛藤の姿は、宙に溶け、消えた。
心地良さに溺れるように、美影は脱力感とまどろみに包まれた。ふらつきを覚えた脳が、美影の膝を折る。
玉砂利の上。両膝をつけた美影。頭はぐらりぐらりと定まらず、視線は、既に消え去った葛藤の行方を宙に尋ねる。
もう、追える姿はない。それでもなお、宙をさまよう。鮮明さを失う視界。視線の行く手を阻むもの。これは、涙。
「準備は済んだ。技の使い方を教えておくから覚え」
「待って!」
久遠の響きを遮断し、美影は顔を手の平で覆った。
「ごめん……少しだけ、待って……」
体を駆け巡った災厄が、ほんの僅か、美影に伝えた感情。それは、圧倒的な孤独と、虚無。
さびしい
こいしい
わたしに
きづいて
受け取ってしまった感情は、美影に涙を強要する。泣くこと以外を許さない。
ごめん
すぐ終わるから
これは
この感情は
私じゃないから
声にしたはずの思い。それは音にならず、嗚咽に飲まれる。
「……果てしない孤独。それはお前のものではない。だが、お前の中に存在する感情だ。それをお前が受け入れたのなら、災厄もお前を受け入れる。互いの存在を確かめ合い、認め合い、ともに生きる……それが宿災の在り方だ」
久遠は言葉を切り、天を仰いだ。地に伏せる美影の姿を、視界に入れまいとしているかのように。
頬を濡らし続ける美影。雨音に重なった嗚咽は、空間に留まろうとする静寂を、ただ拒み続けた。
《 第4話へ続く 》
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