見出し画像

宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・参6

 灯馬は自身の手をじっと眺め、ぐっと握り、静かに開いた。

「こんな風に、手を握って、開いて、自分の顔を触って、生きていることを何度も確かめました。何故、生きているのだろう、と……零下のもと、ひと晩中強風に晒され、雪に叩かれ、それでも生きていた私を、村人達は奇跡と崇めました。神に許された子、愛された子、様々な呼び名を貰いました。ですが皆、心の奥底では私を恐れていたのです。崇める心と恐れる心は、背中合わせで共存しているのですよ。

人々にとって私は、やはり異物であったのです。ですから人々は、何度も何度も私を災厄の前に置きました。その度に私は生きて戻り、ある時、自分の中に災厄が宿っている事に気づきました。時折聞こえるのです、なにものかの声が……

いつしか老いは止まり、眠らずとも平気な体となり、食事もいらなくなりました。当然、人々は恐れを前面に出しました。人間ではない、化け物……そんな言葉には、とうの昔に慣れたつもりでした。ですが私は、自分が皆を守ってきたという自負があった。それが、私を生かしていたんです。ですが限界でした。守ってきた者達に憎しみを抱いたのです。祓うべきは災厄ではなく、人間であると。そう思った瞬間、私は自身に宿った災厄のひとつを放っていました。

それは三日三晩荒れ狂い、村を雪で飲み込みました。吹雪が去った朝、ひとり雪の上に立つ私を見つけてくれたのが、深遠様です。あの方は、私に名を授けて下さいました……灯馬は、灯火に、馬と書きます。雪原に立つ私が、白馬のように見えたそうです。そしてたったひとつの、命の灯のようでもあった、と……私にはもったいない、素敵な名です」

 灯馬は言葉を切り、笑顔を見せ、白装束と腕に巻きつけられた白い布を交互に覗いた。

「これは、私の中に宿った災厄を封じ込めるために、深遠様が施した結界です。私は生来の宿災ではありませんので、結界を纏っていないのです。偽りの宿災であるので、偽宿と呼ばれるようです。深遠様は、その呼び名を気に入っていないようですけどね……

纏う物の中はお見せできませんが、体全体に術を施してあります。眼球、声帯など、私が他者に何かを伝えるために使う場所にも……深遠様によると、瞳の色は、藍に変わったとか。他者と同調する時に限り、結界が解かれる仕組みとなっております」
「そう、そうだったわ。瞳の色が、変わったの」
「私は、変化した目の色を確認できません。この身は、鏡にも水面にも映らないのです。この顔が、本来の自分の顔であるのかもわかりません……維知香様は先程、私を無に近いと仰いましたね。どんな表現が正しいのかわかりませんが、私はおそらく、誰かの心に直接映るような存在となってしまったのではないか、と……

ですから、普通に生きる人々にとっては、無と変わりないのでしょう……とても長い話を、聞かせてしまいましたね。失礼いたしました。何か、質問はございますか?」

 至極柔らかな表情で、灯馬は維知香を見つめる。

 まるで 凪いだ風

 維知香は灯馬の存在を、そう捉えた。確かに存在しているのに、気を抜いたら瞬く間に消えてしまう。見失いたくない。そう強く願い、じっと灯馬を見つめる。問いは、と聞かれれば、数え切れないほど。しかし今は、どれも口にできない。しなくても良い。

 灯馬は、絶対な存在。彼が見えるということ自体、大変な出来事なのだ。軽々しく問いを投げるよりも、その姿を見せてくれたことに、感謝の念を抱くべき。

「維知香様……どうされました? お疲れになりましたか?」

 維知香は灯馬の気遣いに首を横に振って応え、立ち上がり、灯馬の前へと進んだ。

「私に姿を見せてくれて、過去を語ってくれて、ありがとうございます。私、聞きたいことも、知りたいことも、山ほどあります。でも今は、貴方といられて満足で、どう言うのが正解なのかわからないけど、きっと私、嬉しいんだと思います。初めて自分の仲間に会えて、嬉しいんだと思います」

 言い終えると同時、維知香の目から滴が落ちた。それは、はらはらと頬を伝う。嬉し涙ゆえ、維知香は零れるものを隠さず、拭わず、微笑んで見せる。

「帰ります。送って下さいますか? 空を渡らないと随分歩くことになるから」

 少し悪戯に笑い、維知香は灯馬に手を差し出す。

「承知いたしました」

 灯馬は優しく維知香の手をとり、空へと舞い上がった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?